真珠塔・獣人魔島 横溝正史 [#表紙(表紙.jpg)]  目 次   真珠塔《しんじゆとう》   獣人魔島《じゆうじんまとう》 [#改ページ] [#見出し]  真珠塔《しんじゆとう》 [#改ページ]    悪魔《あくま》の使者  世のなかが進歩するにしたがって、昔のようなばかばかしい、お化けや幽霊《ゆうれい》の話は少なくなる。いまどきそんな話をしたら、子供《こども》にだってばかにされてしまうだろう。  しかし、それでは、この世からふしぎなことや怪《あや》しい事件《じけん》が、まったくなくなったかというと決してそうではないのだ。人間が好奇心《こうきしん》だの、恐怖心《きようふしん》だのをうしなわないかぎり、この世から怪しい話や、ふしぎなうわさの種は、つきるということはないものである。  たとえば、深夜の空を、いずこからいずこへともなく飛んでいくという、あの奇怪《きつかい》な金色のコウモリのうわさなどがそれだった。  それは、ある年の夏のおわりごろ、だれいうとなく、深夜の空に舞《ま》いくるう、金色のコウモリのうわさがもれはじめると、ものにおびえた口から口へとつたえられ、たちまちのうちに、東京じゅうの評判《ひようばん》になってしまった。  それを見たという人の話を聞きあつめてみると、なんでもそのコウモリというのは、一ぴきや二ひきではないらしく、五ひき六ぴき、どうかすると、十ぴきちかくもむらがって、ヒラヒラ、ハタハタ、深夜の空を舞いくるうというのだが、怪しいことには、そのつばさから、鬼火《おにび》のような青白い光をはなっているというのだ。  きみたち、考えても見たまえ。  鬼火のような光をはなつコウモリが、音もなく、声もなく、ヒラヒラ、ハタハタ、深夜の空に舞いくるうその光景を……。なんとそれは気味の悪い話ではないか。  しかも、ふしぎなのは、ただそればかりではない。この奇怪な金色のコウモリがすがたをあらわすところ、かならずその近所で、血なまぐさい事件が起こるというのだから、つたえ聞いた人びとが、いよいよ恐《おそ》れたのはむりはないにちがいない。  げんに、こんなことがあった。  それは八月の、ある霧《きり》のふかい夜であった。隅田川《すみだがわ》をのぼりくだりする舟《ふね》の船頭《せんどう》が、水に浮《う》いているわかい女の人の死体を見つけた。  水のうえを家としている船頭たちにとっては、こんなことは、あまり珍《めずら》しいことではない。  こんなばあい船頭は、どんなに気味が悪かろうとも、死体をそのまま見のがすことは、ゆるされない。引きあげて、警察《けいさつ》へとどけ出るのが、水のうえに住んでいる人びとのおきてになっているのだ。  そこで、その夜の船頭も、なにげなく死体をひきあげようとしたが、そのときだった。そばにいた船頭の小さい子供が、キャッと叫《さけ》んで船頭の腰《こし》にしがみついた。おどろいたのは船頭である。 「ど、どうしたんだ。だしぬけに……びっくりするじゃないか」  と、しかりつけると、子供《こども》はがたがたふるえながら、 「だって、だって、おとうさん、あのコウモリをごらんなさい」  と、いわれて船頭がむこうを見ると、ああ、なんということだろう。一ぴきの金色のコウモリが、まるでひとだまででもあるかのように、フワリフワリと、水のうえをとんでいくではないか。  さすがどきょうのよい船頭も、それを見るとゾッとして、おもわず死体を流してしまったということなのだ。  したがって、その死体がどこのだれであったやら、いまもってわかっていないが、船頭の話によると、その死体の胸《むね》には、たしかに短刀のようなものが、突《つ》っ立っていたというのである。  こういううわさは、とかく大げさにつたわるものだが、するとまもなく、こんなことをいいだしたものがあった。  その人は、いつかの夜、明治神宮《めいじじんぐう》の外苑《がいえん》で、金色のコウモリを見かけたが、そのとき、コウモリのすぐ下を、風のように走っていく、ひとりの男のすがたがあった。しかも、その男というのは、全身をまっ黒な服でつつんだ背《せ》の高い大男で、胸にはっきりコウモリのしるしがぬいつけてあったというのである。  また、べつの人の話によると、ある晩《ばん》、隅田川《すみだがわ》のうえを流星のようにすべっていく、怪《あや》しいランチに出あったが、そのランチのなかには、やっぱり胸に金コウモリのしるしをつけた黒ずくめの服の男がのっていた。しかも、そのランチのうえには数十ぴきの金色コウモリが、蛍《ほたる》のようにむらがり飛んでいたというのである。  こうして、怪人物《かいじんぶつ》の登場により、金色コウモリの怪談《かいだん》は、いよいよぶきみさをくわえていったが、いまではだれひとりとして、金コウモリの妖術《ようじゆつ》をつかう、ふしぎな魔術師《まじゆつし》のうわさについてうたがいをいだくものはなかった。ある学者の説によると、世のなかに金色の光をはなつコウモリなんて、あるべきはずはないから、おそらくそれは、夜光|塗料《とりよう》かなんかをぬってあるのだろうというのだが、それにしても、それが単純《たんじゆん》ないたずらなのか、それともなにか、恐《おそ》ろしいもくろみでもあることなのか、だれひとりとして、知るものはないのだった。  少なくとも、それからまもなく、あの大|事件《じけん》が突発《とつぱつ》するまでは……。    御子柴進《みこしばすすむ》はこの春、中学を出て、新日報社《しんにつぽうしや》へはいったばかりの給仕である。  給仕だから、事件が起こっても外へとび出すようなことはない。進は、それがざんねんでたまらないのである。  御子柴進は小さいときから、探偵《たんてい》小説が大すきだった。ふしぎなできごとや、怪しい事件の話を、胸をわくわくさせて読んだものだ。そして、名探偵がそれらの事件を、胸のすくような推理《すいり》でといていくのを読むと、感心のあまり、息もつけないくらいだった。  進が新聞社へはいったのも、新聞社ならいろいろふしぎな事件に、ぶつかることができると思ったからである。  それだのに、いまのところ、上役にお茶をくんで出したり、手紙の整理をしたり、そんなことばかりやらされるのだから、進は内心不服でたまらない。  なんとかして、じぶんもひとつ、すばらしい事件《じけん》にぶつかりたいものだと、思いつづけていたが、そのねがいがとどいたとでもいうのだろうか。ある晩《ばん》、世にも恐《おそ》ろしい事件にぶつかり、それをきっかけとして、血もこおるような、怪事件《かいじけん》のうずのなかにまきこまれることになったのである。  それは、どんより曇《くも》った晩であった。空には星もなければ月もなく、吹《ふ》く風もなまあたたかく、なんとなくうす気味悪い夜ふけであった。  御子柴進はそういう晩おそくなって、青山権田原《あおやまごんだわら》から、信濃町《しなのまち》のほうへ歩いていた。  左に見える神宮外苑《じんぐうがいえん》のあたり、くろぐろと空に浮《う》きあがっている森のなかから、ほうほうときこえるフクロウの声も、みょうに、いんきな気持ちをさそわずにはいない。  つね日ごろ、怪《あや》しいできごと、ふしぎな事件にぶつかりたいと祈《いの》っている進だが、さて、こうしてさびしい夜道を、たったひとりで歩いていると、やっばりいやな気持ちである。  そうだ、こういう晩にこそ、金コウモリがあらわれるのではあるまいか。そういえば、いつか神宮外苑にも金コウモリがあらわれたという。場所といい時間といい、なんだか金コウモリがあらわれそうな気がする……。  と、そんなことを考えながら、足をはやめて歩いているときだった。うしろからやってきた一台の自動車が、進をはねとばしそうな勢《いきお》いで、そばを通りぬけると、そのまま、ごめんともいわず、むこうの闇《やみ》の中へ走っていった。  あやうくとびのいた進は、自動車のうしろを見送りながら、 「ちくしょう、ひどいやつだ!」  と、いまいましそうにつぶやいたが、そのとき、またもやうしろからやってきた一台の自動車。 「あっ、またか!」  と、とびのく進のそばを、まるで流星のように駆《か》けぬけていったかと思うと、まえの自動車のあとを追って、またたくうちに、むこうの闇に消えてしまった。  御子柴進はあっけにとられたように、しばらくそのあとを見送っていたが、 「おかしいなあ。あの自動車、まるで追っかけっこをしてるみたいだ」  と、小首をかしげた。  二台とも、あっというまに進のそばを通りすぎたので、くわしいことはわからなかったが、まえの自動車にのっていたのは、まだわかい女の人のようだった。  それに反して、あとからいった自動車のぬしは、つばの広い帽子《ぼうし》に顔をかくして、マントのようなもので、ふわりとからだを包んだ黒ずくめの服の男のようだった。 「はてな、黒い服の男……黒い服の男……はてな」  ちかごろうわさのたかいふしぎな魔術師《まじゆつし》、あいつもやっぱり黒ずくめの服で身を包んでいるとやら……。  それを思い出した進が、なんとなくドキリとしているときだった。  とつぜん、闇《やみ》をつらぬいてきこえて来たのは、パンパンという二発の銃声《じゆうせい》。 「しまった!」  なにがしまったのか、進にもわからない。しかし、なにかしら、よういならぬことが起こったような気がしたのである。  進はいちもくさんに、いま自動車が走っていったほうへ走り出したが、ふと見ると、むこうのほうに自動車が一台、道ばたの溝《みぞ》に、片《かた》っぽうのタイヤをつっこんだままとなっている。ボディーのかっこうから見ると、どうやらさきにいった自動車らしい。進はすぐその自動車のそばへかけつけた。 「もしもし、どうかしましたか」  声をかけながら進は、ひょいと運転台をのぞいたが、そのとたん、思わずわっとうしろへたじろいだ。  運転台には運転手が、ハンドルをにぎったままうなだれている。  みごとにこめかみをうちぬかれて絹糸《きぬいと》のような赤い血の筋《すじ》が、ほおからあご、あごから胸《むね》へと細い尾《お》をひいてたれている。  進はゾッと身ぶるいしながら、こんどは客席をのぞいてみたが、そこにも、女の人が、いまにも腰《こし》かけからずり落ちそうなかっこうで、うつぶせになっているのだ。  調べてみるまでもなく、その人もすでに死んでいるらしいことが、そのかっこうからしてもわかった。おそらく、あとから追っていった自動車のぬしが、すれちがいざまに、車内から発砲《はつぽう》したのだろう。  それにしても、さっき進が耳にした銃声は、パンパンという二発きりだった。二発でふたりをうち殺す。それも何十マイルというスピードで、走っていく自動車のなかから、もうひとつの自動車のなかの人物を!  ああ、なんという早わざ! なんという妙技《みようぎ》!  あまりにも人間ばなれしたその腕《うで》まえ、と、いうよりはむしろ、なんだか妖怪《ようかい》じみたその神わざに、進は、しばらくわれを忘《わす》れてぼうぜんとしていたが、そのときだった。  なにやら、ふわりと首すじをなでるものがあるので、ギョッとしてふりかえった進は、そのとたん、血もこおるような恐《おそ》ろしさにうたれたのだった。  進の首すじをなでたもの、それこそ、ちかごろ評判《ひようばん》の金色のコウモリではないか。  金色のコウモリは、鬼火《おにび》のように怪《あや》しい光をはなちながら、進の首すじをなでて舞《ま》いあがると、フワリフワリと、おりからのくもり空のかなたへ、高く、とおく消えていってしまったのである。    踊《おど》る人形  進《すすむ》はしばらく、棒《ぼう》をのんだように立ちすくんだまま、そのコウモリのゆくえを見つめていたが、きゅうに、ハッと気がついた。  ああ、もう、まちがいはない。  金コウモリだ、金コウモリの魔術師《まじゆつし》が、人殺しをしたのだ……。  そう気がつくと進はきゅうにぶるぶるふるえ出した。むろんこわかったからではない。いや、こわかったこともこわかったのだが、それよりも武者《むしや》ぶるいというやつである。  ああ、これこそ、待ちに待った絶好《ぜつこう》のチャンスではないか。進はかねてから、こういう事件《じけん》にぶつかることを祈《いの》っていたのだ。  そこで、進はいそいで車内にかけこむと、ぐったりとしている、女の人を抱《だ》き起こした。するとそのとたん、ぬらぬらと両手をぬらしたのは、生ぬるい血潮《ちしお》である。見ると、その人はみごとに心臓《しんぞう》をうちぬかれて、そこから、あぶくのような血が、ぶくぶくと吹《ふ》き出しているではないか。  進はゾッとしながら、それでも、ルームライトのあかりで、女の人の顔を見なおしたが、そのとたん、ハッと息づまるようなおどろきにうたれたのである。  進は、その人を知っていた。それは、丹羽百合子《にわゆりこ》といって、いま東京じゅうの人気を一身にあつめている、ミュージカル女王なのである。  進が、丹羽百合子を知っているのは、その人の出ている舞台《ぶたい》を見たからではない。また、写真で知っているのでもなかった。進はきょうのひるま、丹羽百合子にあったのである。  きょうの三時ごろだった。丹羽百合子は新日報社《しんにつぽうしや》へやってきたのだ。どんな用事があったのか、丹羽百合子が新日報社へやってきたのは、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》にあうためだった。  三津木俊助というのは、新日報社の宝《たから》といわれているくらいの、腕《うで》ききのベテラン記者である。ことに犯罪事件《はんざいじけん》にかけては、他の社にならぶものがないといわれるほどの腕ききで、いままでにどれだけおおくの怪事件《かいじけん》の謎《なぞ》をといてきたか、わからないくらいなのだ。  御子柴進《みこしばすすむ》が新日報社へはいったのも、その人の名声を聞いたからだった。じぶんもなんとかして、三津木俊助のような、腕ききの新聞記者になりたいものだと考えたからだった。  それはさておき、丹羽百合子がたずねてきたとき、あいにく俊助はるすであった。百合子は半時間ほど待っていたが、それでも俊助が帰らないので、失望のおももちで帰っていったが、ひょっとすると、あのとき百合子は、金コウモリのことについて、なにか俊助に打ちあけようとしていたのではないだろうか。そして、それを金コウモリにさとられたために、うち殺されたのではないだろうか。  そう考えると進は、心臓がドキドキするほど、強い好奇心《こうきしん》をかんじないではいられなかった。  そこで、なにか手がかりになるものはないかと、大いそぎで室内を調べたが、そのとき、ふと目についたのは、座席《ざせき》のしたにころがっている、はでなハンドバッグだった。  取りあげてひらいてみると、コンパクトだの、がまぐちだの、いかにも女らしい品物のほかにただひとつ、血にぬられたようなまっ赤《か》な封筒《ふうとう》が……。  進はなにげなく、その封筒を取りあげたが、そこにはあて名もなければ、差出人の名も書いてない。  進はますます怪《あや》しみ、あれこれと、いろいろ封筒をあらためていたが、そのうちに、ふと気がつくと、すみのほうに、なにやらすかしがはいっている。電気の光でそれをすかしてみて、進はおもわずギョッと息をのみこんだ。  金のコウモリ——たしかにそれは、金のコウモリの紋章《もんしよう》だった。 「よし、かまうものか。開いてみてやれ」  進は胸《むね》をドキドキさせながら、封を切ってさかさまにはたいてみたが、すると、なかから出てきたのは、なんともいえぬほど、へんてこなものだった。  それは大きさ七センチばかりの、紙製《かみせい》の打ち抜《ぬ》き人形なのである。  数は十五、六もあって、いずれもおかっぱ頭の、同じような顔をしているが、ただ、そのかっこうが少しずつかわっているのだ。人形はみんな両手に、赤と白との旗をもっているのだが、その旗のふりかたが、少しずつかわっているのだった。  参考のために、その人形のかたちというのを、かんたんにここにかいておこう。きみたちはなにか、この人形のかっこうから、思いあたることはないだろうか。進は、なんともいえぬ、へんてこな気がせずにはいられなかった。 [#挿絵(fig1.jpg、横416×縦202)]  金コウモリのすかしがはいっているところから、てっきり血なまぐさい、しょうこの品と思っていたのに、これはまた、あまりにも意外な、まるで子供《こども》だましのような紙人形なのである。  進はしばらく、あっけにとられたような顔をしていたが、しかし、いまはそんなことをとやかく考えているばあいではない。  進は封筒のまま、その紙人形をポケットにつっこむと、ドアから外へとび出したが、そのときだった。  またしてもきこえて来たのは、けたたましいエンジンのひびき。見ると、さっき怪《かい》自動車の走りさった方向から、流星のように走ってくる自動車が見える。 「さっきの自動車だろうか。まさか……」  と、うち消しながらも、なんとなく身に危険《きけん》をかんじた進は、ハッと自動車のかげに身をすくめたが、そのときだった。風のように走りすぎる自動車のなかから、  パン! パン!   さっと青白い火花が散ったかと思うと、進の耳のそばを、やけつくようにあつい鉄のかたまりがとびすぎた。  あぶない! あぶない!   もう三センチ、いや、もう一センチ、ねらいが右へそれていたら、進のいのちはなかったにちがいない。  進はおもわずあっと、土のうえに顔をふせたが、そのとたん、ちらりと目の底にのこったのは、風のように走りすぎる自動車のなかから、ピストル片手《かたて》に、半身をのり出した、黒ずくめの服の男である。  しかも、ああ、なんという奇怪《きつかい》さだろう。  その男は顔にゾッとするようなどくろ[#「どくろ」に傍点]の仮面《かめん》をつけているではないか。    さあ、翌朝《よくあさ》の新聞はたいへんだ。どの新聞もどの新聞も、でかでかとこの事件《じけん》について書きたてたのはいうまでもない。 『ミュージカルの女王|射殺《しやさつ》さる』だの、『丹羽百合子《にわゆりこ》の怪死《かいし》』だのと、できるだけ大きな活字をつかって書きたてた。  こういう記事におどろいた人びとは、さて、そのあとで新日報《しんにつぽう》をひらいて二度びっくり、あっとばかりにきもをつぶしたのである。  それはそうだろう。ほかの新聞はみんな、丹羽百合子の殺されたことは書いていても、犯人《はんにん》についてはまだなんにも書いていないのだ。  犯人については目下取り調べちゅうだの、いまのところ、犯人不明としか書いてないのに、新日報だけはでかでかと、犯人のことが書いてあるのだ。  しかも、その犯人というのが、いま評判《ひようばん》の金コウモリの怪人《かいじん》だというのだから、それを読んだ人びとが、あっとばかりにふるえあがったのもむりはなかった。  そこには、御子柴進《みこしばすすむ》の、目撃《もくげき》したとおりのことが出ていた。  全速力で走っていく二台の自動車……二発の銃声《じゆうせい》……丹羽百合子の怪死……自動車のそばから舞《ま》いあがった金コウモリ……ひきかえしてきた自動車……御子柴少年あやうく狙撃《そげき》さる……どくろ仮面の怪人……。  そんなことが、でかでかと書きたててあったからたまらない。その朝の新日報はひっぱりだこ、どこの立ち売りの売店でも、新日報だけは、またたくまに売り切れてしまった。  ジャーナリズムでは、ほかの新聞の知らないことをすっぱ抜《ぬ》くのを、特種《スクープ》という。そして、特種をおおくつかんでくる記者ほど、腕《うで》ききの新聞記者ということになっているのだ。  御子柴進がゆうべ出あった事件は、特種も特種、大々的なスクープだから、さあ、社内の人気はたいへんなものだった。 「やあ、探偵小僧《たんていこぞう》、えらい特種をつかんできたな。大|手柄《てがら》だぞ。出かした小僧というところだ、あっはっは……」  と、うれしそうにほめてくれる人があるかと思うと、また、なかには、 「おい、探偵小僧、社長賞をもらったか。まだ……? いまに出るからな、そしたらおれにおごるんだぜ」などと、抜《ぬ》けめのない人もいる。  しかし、探偵小僧の御子柴少年は、人にどんなにほめられても、おだてられても、にこりともせず、かえってなにか心配そうな顔で、朝からしきりに三津木俊助《みつぎしゆんすけ》をさがしていた。  しかし、まえにもいったように、三津木俊助といえば、新日報社《しんにつぽうしや》の宝《たから》といわれるくらいの腕《うで》きき記者、いつも外をとびまわっているので、めったに社にいることはない。  進がやっとその俊助をつかまえたのは、夕方の六時すぎ、俊助はどこへ出かけるのかタキシードなんか着て、いつになくめかしこんでいた。 「あっ、三津木さん、ちょっと……」  進が声をかけると、俊助はふりかえって見て、にこにこしながら、 「やあ、探偵小僧か、ゆうべはえらい手柄だったよ。おかげできょうのうちの新聞、どこへいっても大|評判《ひようばん》だぜ」 「それについて三津木さんに、ないしょでちょっと話があるんですが……」 「ぼくにないしょで話がある……?」  俊助は心配そうに進の顔色を、さぐるように見ながら、 「おい、探偵小僧、ゆうべの話、あれはうそじゃないだろうな。それだと、たいへんだぞ」 「やだなあ、三津木さん、ぼくをそんなインチキ小僧だと思ってるんですか」  進が、わざとムッとして見せると、俊助はいかにもうれしそうに笑いながら、 「あっはっは、そうか、そうか、ごめん、ごめん。あんな手柄を立てながら、きみがあんまり心配そうな顔をしているものだから、つい気をまわしたのだよ。じゃ、ぼくの部屋《へや》にきたまえ」  さすがは新日報社の宝といわれるだけあって、俊助はじぶんの部屋をもっている。そこで、さしむかいになると、 「御子柴くん、ぼくにないしょの話とは?」 「三津木さん、これです。見てください」  進が取り出したのは、まっ赤《か》な封筒《ふうとう》。いうまでもなく、それこそは、ゆうべ丹羽百合子のハンドバッグから見つけたものだった。 「なに……? これ」 「三津木さん、すみのほうをすかして見てください」  俊助はふしぎそうに、封筒をすかしていたが、きゅうにギョッと息をのみ、 「あっ、こ、これは金コウモリ……御子柴くん、き、きみはこれを、どこで手にいれたんだ」 「丹羽百合子のハンドバッグのなかにあったんです。それをぼく、そっとかくしておいたんですが、おまわりさんに叱《しか》られやしないかと、それが心配で心配で……朝から三津木さんをさがしていたんです」  俊助は目をまるくして進の顔を見ていたが、やがて、あわてて封筒《ふうとう》をさかさにふるとなかから出てきたのはまえにも書いておいた、あの奇妙《きみよう》な打ち抜《ぬ》き人形である。 「なんだい、これは……おもちゃかい?」 「いいえ、おもちゃじゃないと思います。ぼく、これ手旗信号じゃないかと思うんです。それで同じやつはいっしょにして、ゆうべ解《と》いてみたんです。そしたら、こんなふうになったんですが……」  と、進がひらいてみせたノートには、つぎのようなことが書いてあった。 [#挿絵(fig2.jpg、横136×縦605、上寄せ)]  俊助はまゆをひそめて、 「しかし、これじゃなんの意味だか、さっぱりわからないねえ」 「ええ、これは、人形のあらわしている文字をじゅんじょもかまわず書きつけただけですから。……だから、この文字をならべかえていけば、きっとなにか意味のあることばになるにちがいないと、ゆうべいろいろやってみたんですが、どうしてもわからないんです。ただ、11と13と4番でこうなんじゃないかと思うんですが……」  と、進がひらいてみせた、ノートのつぎのページには、   ヤカイ(夜会)   と書いてあった。 「な、な、な、なに、夜会だって……?」  なににおどろいたのか俊助は、目をサラのようにして、進の解いた片仮名《かたかな》文字を、見つめていたが、やがて拾い出したのは、   ユノキテイ(柚木邸《ゆのきてい》)  と、いうことば。それから、 「御子柴くん、丹羽百合子はきのう、これを金コウモリからうけとったんだね」  と、いいながら、つぎに拾い出したのは、   アスノヨ(あすの夜)  これで十二文字までは意味がわかったが、あとに残ったのは、   ノイケヘ  と、いう四文字。しかし、こうなるともう、それほどむずかしいことはない。  俊助はしばらく、さがし出した三つのことばと、あとに残った四文字を、あれかこれかと組み合わせていたが、やがてできあがったのは、つぎのようなことばである。   アスノ夜柚木邸ノ夜会ヘ行ケ 「あっ、そ、それじゃ今夜、柚木というひとのおうちで、夜会があるのでしょうか」 「あるんだよ、柚木|真珠王《しんじゆおう》の邸宅《ていたく》で、仮装舞踏会《かそうぶとうかい》があるんだ。そして、ぼくはこれからそこへ出かけるところなんだ」  進はおもわずあっと、俊助のみなりを見なおした。 「ああ、それじゃ金コウモリは丹羽百合子にその夜会へいけと命令したんですね」 「そうだ、それにちがいない。百合子さんはしかし、どうしようかと迷《まよ》ったあげく、ぼくのところへ相談にきたのだろう。ところがあいにく、ぼくがいなかったものだから、がっかりして帰っていったが、それを金コウモリにかぎつけられ、裏切《うらぎ》り者として殺されたんだ」 「それじゃ、丹羽百合子は金コウモリの部下だったんですね」  ああ、あの有名なミュージカルの女王が、金コウモリの部下だったとは……。進の声がふるえていたのもむりはなかった。 「うん、そうだ。きっとそれにちがいない。そして、百合子はそのことを、後悔《こうかい》していたにちがいない。しかし、おい、探偵小僧《たんていこぞう》!」  俊助はやにわに進の肩《かた》を、いやというほどたたくと、いかにもうれしそうに、 「おまえはなんというすばしっこいやつだ。こんなすばらしい手がかりを手にいれるなんて……。おまえは新日報社《しんにつぽうしや》のマスコットだ。社長や編集《へんしゆう》局長にうんと吹《ふ》きこんでおいてやる」  日ごろ尊敬《そんけい》する俊助から、口をきわめてほめられたものだから、進は、うれしくてたまらない。赤くなって、どぎまぎしながら、 「しかし、あの、三津木さん、金コウモリは丹羽百合子を、柚木さんのパーティーへやってどうしようとしたのでしょう」 「ああ、そのことか、それはこうだ」  と、三津木俊助が語るところによると、 「じつは今夜のパーティーで、柚木真珠王のつくりあげた、世にもすばらしい真珠の塔《とう》を、お客さんに見せることになっているんだ。ぼくが招《まね》かれたというのも、表面は客ということになっているが、じつはその真珠塔の番人をたのまれたんだよ。客のなかに、どんな悪者がまじっているかもわからないからね。しかし、ちくしょう、それじゃ金コウモリのやつが、あの真珠塔をねらっているのか。よし、御子柴くん、きみはちょっとここで待っていたまえ」  俊助は大いそぎで部屋《へや》からとび出していったが、しばらくすると帰ってきて、 「さあ、行こう」 「えっ、ど、どこへ行くんですか」 「柚木邸へいっしょにいくんだ。編集局長にもそういってきた。おい、探偵小僧、おまえはきょうからぼくの助手になるんだよ」 「三津木さん!」 「さあ、いっしょに来い!」  進は、うれしくてうれしくてたまらない。それはそうだろう。あこがれのまとの俊助ときょうから冒険《ぼうけん》をともにすることが出来るのだから。  表へ出るとタクシーが待っていた。ふたりがそれにとびのると、タクシーはすぐに出発したが、ああ、そのとき俊助が、もう少し運転手や助手のようすに、ふかい注意をはらっていたら……。  自動車が三宅坂《みやけざか》にさしかかったときだった。助手席にすわっていた男が、ふいにくるりとうしろをふりかえると、手にしたピストルのひき金を、俊助の鼻さきでひいたのだ。 「あっ!」  三津木俊助と御子柴進は、思わずさっと立ちあがろうとしたが、そのときはすでにおそかった。ひき金がひかれたとたん、シューッと妙《みよう》な音がしたかと思うと、なにやら甘《あま》ずっぱいにおいがふたりの鼻をついて、三津木俊助も進も、くらくらと気をうしなってしまったのである。  ああ、わかった、わかった! 悪者は麻酔《ますい》ピストルをぶっぱなしたのだ。つまり、そのピストルのなかには、弾丸《たま》のかわりに麻酔剤《ますいざい》がはいっていたのだ。  さすがの俊助も、薬のききめには勝てるどうりがない。進とともに、こんこんとしてふかい眠《ねむ》りに落ちてしまったが、それを見ると、自動車は、うまくいったとばかりに、どこへともなく走り去ったのだった。  ああ、それにしてもなんという早わざ!  まだ、戦闘《せんとう》も開始されていないのに、悪魔《あくま》ははやくも先手をうって、三津木俊助と御子柴少年をいずこともなくつれ去ったのである。    ニコラ神父  さて、怪《かい》自動車につれさられた三津木俊助《みつぎしゆんすけ》や御子柴《みこしば》少年は、その後どうなっただろうか。しかしそれらのことはしばらくおあずかりとしておいて、ここではその夜、柚木真珠王《ゆのきしんじゆおう》の邸宅《ていたく》で起こった、なんともいえぬふしぎな事件《じけん》について、話をすすめていくことにしよう。  柚木真珠王の邸宅は紀尾井町《きおいちよう》にある。なにしろ有名な大邸宅だけあって、その建物のひろさ、りっぱさは近所でも評判《ひようばん》である。  主人の柚木というのは、白髪《はくはつ》のきれいなおじいさんで、ふつう柚木老人とよばれている。カトリック教の熱心な信者で、たいへんな慈善家《じぜんか》だということだ。おくさんはだいぶまえになくなったが、弥生《やよい》というお嬢《じよう》さんがあって、この人が柚木老人にとって、なによりの楽しみとも、なぐさめともなっているのである。  弥生はことし十五|歳《さい》、ほんの子供《こども》だが、なくなったおかあさんに似《に》て、その可愛《かわい》らしいことは人形のようである。ことに今夜は、仮装舞踏会《かそうぶとうかい》のこととて、あどけないフランス人形になっているのだが、その愛らしいこと、美しいことといったら、それこそ、だれでも抱《だ》きついて、ほおずりしたくなるほどだった。  ただ、気になるのは、その美しい顔にやどった暗いかげ……。  それもそのはず、弥生は今夜の舞踏会が心配でたまらないのである。おとうさんの話によると、今夜、真珠塔《しんじゆとう》をホールにかざって、客に見せるということだが、今夜のような仮装舞踏会では、どのような人間がまぎれこもうとも知れない。それがまず心配のひとつだが、もうひとつの心配というのは、むろん金コウモリのこと。  じつはゆうべ、弥生ははからずも、庭のおくに飛んでいる、あの気味悪い金コウモリを見たのである。ああ、そのときの恐《おそ》ろしかったこと。コウモリはそのまま、どこへともなく飛び去ったが、ひょっとすると、あれがなにか、悪い前ぶれではあるまいかと思うと、いっそう、今夜のパーティーが不安でたまらないのだ。  と、いって、すでにきまったものをいまさら取りやめにするわけにもいかない。そこで思いあまった弥生が、それとなく、おとうさんに胸《むね》の不安を打ちあけると、 「そのことだったら、なにも心配することはないのだよ。念のために警視庁《けいしちよう》の等々力警部《とどろきけいぶ》や、新日報社《しんにつぽうしや》の三津木俊助さんにたのんであるから、決して心配するにはおよばんよ」  と、おとうさんは答えたが、弥生の心配は、それくらいのことではおさまるものではない。いまもいまとて、リビング・ルームで、そろそろお客さまのくる時間だが、なにも変わったことがなければよいがと、ひとりくよくよ胸をいためているところへ、コツコツとドアをたたく音。 「どなた」 「わたし、です」  ドアの外からきこえてきたのは、どこかアクセントのちがった声。 「あら、神父さまでしたの。よくおいでくださいました」  弥生がとんでいってドアをあけると、はいってきたのは背《せ》のたかい外国人で、カトリックのお坊《ぼう》さんの服を着ていた。弥生があいさつをすると、お坊さんはにこにこしながら、 「おお、すてき、ミス弥生、あなた、とてもきれいです。お人形のよう」  と、じょうずな日本語でほめた。  弥生のおとうさんの柚木老人が、カトリック教の信者だということは、まえにも紹介《しようかい》したが、この人はその教会の神父で、たいへん徳《とく》のたかいお坊さんなのである。名まえはニコラ。 「まあ、神父さま、よいところへきてくださいました。わたし、心配で、心配で……」 「ミス弥生、なにがそんなに心配ですか」 「わたし、ゆうべ金コウモリがお庭のおくに飛んでいるのを見たのです。だから今夜ひょっとすると金コウモリの怪人《かいじん》が、やってくるのではないかと、わたし、それが心配でなりません」   弥生が胸の不安を打ちあけると、ニコラ神父はにこにこ笑って、 「おお、ミス弥生、わたし、金コウモリなど信じません。あれはみんな迷信《めいしん》です。世のなかに、金色のコウモリなどありません。日本人、迷信ぶかくて困《こま》ります」 「でも……、でも、あたし、げんにゆうべこの目で見たんですもの。金コウモリがお庭を飛んでいるのを……あれ!」  とつぜん、弥生が胸《むね》にしがみついてきたので、これには神父もおどろいた。 「ど、ど、どうしました。弥生さん」 「あそこに……あそこに金コウモリが……」 「えっ? 金コウモリが……?」  窓《まど》のほうをふりかえったニコラ神父は、思わずギョッと、棒立《ぼうだ》ちになってしまった。  おお、なんということだろう。窓の外の暗がりを、ひとだまのようにふらふらと、飛んでいるのは、まぎれもなく金コウモリ。 「あっ!」  さすがのニコラ神父もしばらくは、弥生を抱《だ》きしめたまま、息をのんで、その気味の悪いけだものを見つめていたが、やがて勇気をとりもどしたのか、弥生のからだをつきはなし、つかつかと窓のそばにあゆみよると、がらりとガラス戸をひらいたが、そのとたん、金コウモリはフワリと窓のそばをはなれると、植えこみの枝《えだ》から枝へとつたわって、フワリフワリと、屋根のむこうに消えてしまった。 「ああ、ミス弥生、もうだいじょうぶ。金コウモリは消えてしまいましたよ」 「いいえ、いいえ、神父さま。金コウモリは消えても、金コウモリの怪人《かいじん》は、きっと今夜やって来ます。そして……そして……金コウモリがあらわれると、きっと、人殺しがあるということです。神父さま、神父さま、わたし、どうしたらよいのでしょう。ああ、こわい、わたし、こわい……」 「これこれ、ミス弥生、おちつかなくてはいけません。だいじょうぶ。だいじ……」  ニコラ神父のことばが、とちゅうでとぎれたかと思うと、弥生を抱いていたからだが、きゅうにはげしくふるえたので、なにごとが起こったかと、ふと顔をあげた弥生は、そのとたんまっさおになってしまった。  おお、なんということだ!   ドアの前に、金コウモリの怪人が立っているではないか。  つばの広い帽子《ぼうし》に、だぶだぶのマント。マントの胸には、金色のコウモリがぬいつけてある。  しかも、おお、なんという気味悪さ。どくろの仮面《かめん》のしたから、じろじろふたりを見つめながら、金コウモリの怪人は、ペコリと頭をさげたではないか。    三人の金コウモリ 「あなたはだれです。どうしてこんなところへ来たのです」  やっと勇気をとりもどしたニコラ神父が、とがめるようにそういうと、 「いやあ、これは失礼。びっくりさせてすみません。弥生《やよい》、わたしだよ、ほらね」  と、どくろの仮面《かめん》をとった顔を見て、弥生もニコラ神父も、思わず目を見張《みは》った。なんと、それは柚木《ゆのき》老人ではないか。 「まあ、おとうさまでしたの、びっくりしたわ。それがおとうさまの今夜の仮装《かそう》なの」 「そうだよ、弥生。金コウモリのやつが真珠塔《しんじゆとう》をねらっているといううわさがあるので、ひとつ、からかってやろうと思ってね。あっはっは、神父さま、よくいらっしゃいました」 「ああ、おとうさま、金コウモリといえば、さっきもこの窓《まど》の外を飛んでおりましたのよ」 「えっ、そ、それはほんとうかい」 「ほんとうです。神父さまもごらんになりましたのよ。ねえ、神父さま」 「はい、見ました。わたし、いままで金コウモリなど信じませんでしたが、今夜という今夜はたしかに見ました。ふしぎです」  柚木老人もそれを聞くと、心配そうに窓から外をながめていたが、もとより、もうそのじぶんには、怪《あや》しいコウモリのすがたなど、かげもかたちも見えなかった。 「あっはっは、弥生や、なにも心配することはないのだよ。今夜は警視庁《けいしちよう》から等々力警部《とどろきけいぶ》もきてくださるし、それに新日報社《しんにつぽうしや》の三津木《みつぎ》さんも、まもなくお見えになるはずだからな」  しかし、その三津木|俊助《しゆんすけ》はそのころすでに、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴《みこしば》少年とともに、金コウモリの手先のために、いずこともなくつれさられていたのだった。  それはさておき、こうした不安につつまれながらも、それからまもなくひらかれたのが、あの有名な柚木|邸《てい》の仮装舞踏会《かそうぶとうかい》である。  虹《にじ》と見まちがえるほどの五色のテーブルに、色美しくかざられた大ホールの一隅《いちぐう》に、ガラスのケースにおさまって陳列《ちんれつ》されているのが、今夜のよびものの真珠塔。なるほど柚木真珠王が精魂《せいこん》をかたむけてつくりあげたというだけあって、その真珠塔のみごとなこと。  塔の高さやく一メートル、五重の塔になっていて、上から下まですきまもなく、上等の真珠をちりばめた美しさ。なんでも柚木老人はその真珠塔をつくるのに、全財産《ぜんざいさん》を投げだしたとやらで、いまのねだんにすると、何十億のねうちがあるかわからぬということ。その夜のお客で、そのみごとさをほめない人はいなかったが、しかし、それにもまして、強く人びとの目をひいたのは弥生である。じっさい、ニコラ神父に手をひかれて、しずしずとホールのなかへはいってきた弥生の美しさといったら、それこそ照りかがやくばかりだった。 「まあ、なんてかわいいんでしょう」 「ああ、これはみごとだ。このお嬢《じよう》さんのほうが、真珠塔より、よっぽどみごとだ」  と、くちぐちにほめそやされ、弥生はほおをそめながら、 「神父さま、おとうさまはどこにいらっしゃるのでしょう」  と、あたりを見まわしたが、なにしろホールにあふれる客は、みんな仮装しているのだから、だれがだれだかわからない。そのうちに、金コウモリに仮装している人を見つけて、 「ああ、あそこにいらっしゃるわ」  と、そばへかけより、 「おとうさま」  と、あまえるように声をかけると、 「ああ、これは失礼、お嬢さま、おとうさまならむこうにいらっしゃいますよ」  と、そういわれてびっくりした弥生が、むこうを見ると、なるほどそこにも同じ仮装《かそう》の金コウモリが客にとりかこまれて、愛想をふりまいているのである。 「あら、失礼、ごめんなさい」  気味悪そうに何者ともしれぬ金コウモリのそばをはなれて、もうひとりの金コウモリのほうへいこうとした弥生は、そこで、ハッと立ちどまった。そのときホールの入り口から、ふらりふらりとはいってきたのは、なんと、また金コウモリの仮装ではないか。  ああ、よりによって、いまわしい金コウモリの仮装が、ひとりならずふたり三人、同じ場所にあつまるというのは、なんということだろう。しかも、いまはいってきた第三の金コウモリの気味悪さ。からだはほかのふたりよりよほど小さく、顔はどくろの仮面《かめん》でかくしているが、その仮面の下からのぞいている目の気味悪さ。  それは、まるでくさった魚の目のように、どろんとにごって生気がなく、しかも、その足どりというのが、雲をふむようにフワリフワリと、まるで幽霊《ゆうれい》が歩いているようなのだ。  弥生はそれを見ると、ゾーッと鳥はだが立つような気がしたが、ほかの人もそれに気がつき、 「おや、また、あそこへ金コウモリがきましたよ」 「まあ、いやねえ、柚木さんもいたずらがすぎますわ」 「いや、これはいたずらではないかもしれん。なにか、ほんとに起こるかもしれんぞ」  お客たちもなんとなく、気味が悪くなったのだろう。じりじりとホールのすみへしりぞいた。弥生もそれを聞くと、気が気でなく、三人の金コウモリを見つめている。  やがて客たちは、すっかり壁《かべ》ぎわにしりぞいて、真珠塔《しんじゆとう》をかざってあるテーブルのまわりは、がらあきになってしまった。そして、そのテーブルの左右に立っているのは、ふたりの金コウモリだけ。  と、そこへあいかわらず、雲をふむような足どりで、フワリフワリとちかづいてきたのは、いま入り口からはいってきた第三の金コウモリだ。  しばらく三人は、たがいに仮面をのぞきあっていたが、やがてひとりが、 「あなたはだれです!」  と、叫《さけ》んだ。するともうひとりが、 「あなたこそ、だれです!」  と、おうむがえしに叫ぶ。すると、第三の金コウモリも、 「そういうあなたがたこそ、だれです!」  と、これまた、負けずにやりかえしたが、ああ、その声の気味悪さ。ひくくしゃがれてそれでいて、みょうにきいきいした声なのである。 「仮面《かめん》をおとりなさい!」  と、最初のひとりがいうと、それにつづいて、第二の金コウモリが、これまた、 「仮面をおとりなさい!」 「仮面をおとりなさい!」  第三の金コウモリも、あいかわらず、ひくい、きいきい声でいった。 「ちくしょう!」 「ちくしょう!」 「ちくしょう!」  ああ、なんということだろう。  ひとりがものをいうたびに、ほかのふたりも順ぐりに、同じことをいうのである。  もしこれが舞台《ぶたい》かなにかで演《えん》じられるお芝居《しばい》なら、これほどおもしろい場面はないにちがいない。見ている人びとも、きっと腹《はら》をかかえて、笑いころげたことだろう。  しかし、いまはだれひとり口をきくものさえいない。なにかへんである。なにかしら、気味が悪いのである。  弥生をはじめとして、ほかの客たちも、手に汗《あせ》をにぎって、この場のなりゆきを見まもっていた。 「おのれ!」 「おのれ!」 「おのれ!」  三人の金コウモリが、またもややまびこのように叫んだ。と、いまはもうたまりかねたのか、第一の金コウモリが声をあらげ、 「おい、仮面をとれ。仮面をとって顔を見せろ」  と、叫びながら、第三の金コウモリに、おどりかかろうとしたが、そのとたん、サッと身をひいた第三の金コウモリが、右手をあげたのが合図でもあったのか、いままで、さんぜんとかがやいていたホールの、電気という電気が、いちじに消えて、あたりはうるしにぬりつぶされたような闇《やみ》。  そうでなくてもさっきから、おびえきっていた人びとは、思わず、キャーッと暗がりで、なだれをうってかえしたが、そのときだった。もっともっと恐《おそ》ろしいことが起こったのである。  どこから舞《ま》いこんだのか、怪《あや》しいコウモリが一ぴき、二ひき、三びき、きらきらと鬼火《おにび》のような光をはなちながら、まっ暗な天井《てんじよう》のあたりを、フワリフワリと飛んでいるではないか。  それを見るとおおぜいの客たちは、またもや、キャーッと、大きくなだれをうってかえした。    恐ろしき罠《わな》  こうして、人びとが暗闇《くらやみ》のなかで、悲鳴をあげて押《お》しあいへしあい、大|混雑《こんざつ》しているころ、ひらりとホールを抜《ぬ》け出したひとつの影《かげ》がある。  ホールの外も、うるしのような闇だから、すがたかたちを知るよしもないが、胸《むね》にぬいこんだ金コウモリのししゅうだけが、鬼火《おにび》のようにぼうっと光っている気味悪さ。ああ、ひょっとするとこの影こそ、ほんものの金コウモリではないだろうか。  怪《あや》しい金コウモリは、長い廊下《ろうか》をいくどかまがって、やがてやってきたのは、柚木《ゆのき》老人の書斎《しよさい》だった。幸か不幸か、ホールのさわぎにとりまぎれて、そのとき書斎のちかくには、だれひとり人はいなかった。  しめたと思ったのか、金コウモリは合《あ》い鍵《かぎ》を出してドアをひらくと、なんなく書斎のなかへしのびこんだ。そして、手にした懐中《かいちゆう》電灯で、部屋《へや》のなかを調べていたが、すぐ目についたのは、人間の高さほどあろうという大金庫である。  金コウモリはそれを見ると、満足そうな吐息《といき》をもらしながら、金庫の前にしゃがみこみ、ぐるぐるダイヤルをまわしはじめた。  それにしても、ふしぎなのは金コウモリの行動である。金コウモリのねらっているのは、真珠塔《しんじゆとう》ではなかったのだろうか。真珠塔ならホールにかざってあるのに、なんだって書斎へしのびこみ、金庫など開こうとするのだろう。  ひょっとすると金庫のなかには、真珠塔よりもっとねうちのあるものが、しまってあるのではないだろうか。  いやいや、そんなことは考えられない。柚木老人は真珠塔をつくるのに、全財産《ぜんざいさん》を投げ出したというではないか。してみれば、真珠塔よりねうちのあるものが、金庫のなかにのこっているはずがないのだ。とすれば、金コウモリはいったい、なにをねらっているのだろうか。  それはさておき、金コウモリがぐるぐるダイヤルをまわしているうちに、やがてガタンと音がして金庫の鍵がはずれた。  金コウモリはふるえる手で、重い金庫のドアをひらくと、さっと懐中電灯の光で、金庫のなかを照らしたが、そのとたん、 「あっ!」  と、いう叫《さけ》びが唇《くちびる》からもれた。思いがけなくも金庫のなかはもぬけのから、金《かね》めのものはもちろん、紙くず一|枚《まい》ないのである。 「しまった! しまった! ちきしょう、いっぱいくわされた!」  金コウモリの怪人《かいじん》は、いかにもくやしそうに、じだんだふんでくやしがったが、それでもまた気を取りなおして、もう一度懐中電灯の光で、金庫のなかを調べてみると、おくのほうになにやら紙が貼《は》ってある。 「しめたっ、ひょっとすると、あれがなにかの手がかりになるかもしれない」  そうつぶやいた金コウモリは、左|腕《うで》をのばしてその貼り紙に手をかけたが、そのとたん、 「キャッ!」  と、たまぎるような、叫びをあげた。ああ、なんということだろう。金コウモリが貼り紙をむしりとったとたん、金庫からとび出した、するどい二本の鋼鉄《こうてつ》の歯が、ガッキとばかり、手首をはさんだではないか。 「あっ、いたッ、いたッ、ちきしょう! ちきしょう!」  金コウモリはもがいた。うめいた。まるで罠《わな》に落ちた猛獣《もうじゆう》のように、ものすごいうなり声をあげてあばれまわった。  しかし、もがけばもがくほど、あばれれば、あばれるほど、するどい鋼鉄の歯は、いよいよますます、強く手首にくいいるばかり。  わかった、わかった。これこそ柚木|真珠王《しんじゆおう》が、どろぼうの用心のために、仕組んでおいた罠だったのだ。そして、金コウモリの怪人《かいじん》は、まんまとその罠に落ちたのである。  こうして、罠に落ちた金コウモリの怪人が、死にものぐるいでもがいているころ、ホールでも、また、大さわぎがつづいていた。  あの怪《あや》しい金色コウモリが、一ぴき、二ひき、三びき、まだフワリフワリと、暗い天井《てんじよう》をとんでいる。そのコウモリが頭上にくるたびに、人びとは悲鳴をあげて逃《に》げまどった。 「電気! 電気! 電気をつけろ!」  だれかが、はげしく叫んだが、そのとたん、ホールの片《かた》すみからズドンと一発ピストルの音。それが命中したのか、しなかったのか、金色コウモリのすがたが、かき消すように消えたかと思うと、どこかで、 「キャッ、うむむむ……」  と、するどい悲鳴とうめき声、それにつられて、ドスンとなにか倒《たお》れる音。 「あっ、だれかがここに倒れている!」 「血! 血だ! 血が流れている……」  暗闇《くらやみ》のなかで、くちぐちに叫ぶ声がきこえたが、それからまもなく、やっとのことで電気がついてみると、あの真珠塔《しんじゆとう》をかざったテーブルのしたに、ぐったり倒れているのは金コウモリの仮装《かそう》の人物。見ると、胸《むね》からどくどくと、おそろしい血が吹《ふ》き出して……。  そして、そのそばにしゃがんでいるのは、ニコラ神父ともうひとりの金コウモリ。見ると、その金コウモリのにぎったピストルからは、まだぶすぶすと煙《けむり》が吹き出しているのである。  遠くのほうからそれを見ていた弥生は、ハッと、ある恐《おそ》ろしい予感にうたれた。  ぼうぜんとしているおおぜいの客をかきわけて、そのほうへかけつけていくと、ちょうどそのとき、ニコラ神父が、倒《たお》れている金コウモリの顔から、仮面《かめん》をはずすところだったが、ああ、弥生の予感はあたっていた。 「お、お、おとうさま!」  弥生は床《ゆか》に倒れている金コウモリに、ひしと、すがりついたが、まさしくその金コウモリこそ、弥生の父、柚木|真珠王《しんじゆおう》だったのである。真珠王は短刀で胸《むね》をえぐられて、はや、息もたえだえだった。 「だれです、こんなことをしたのは……。ああ、あなたがそのピストルをうったのですね」  弥生はいかりに声をふるわせて、そばにいるもうひとりの金コウモリをきめつけた。 「いいえ、わたしじゃありません、お嬢《じよう》さん、わたしはあの怪《あや》しいコウモリめがけてぶっぱなしたのです」  そういいながらその金コウモリは、いまさらのように、あかるくなったホールを見まわした。しかし、あの怪しいコウモリのすがたは、かげもかたちも見あたらない。 「それにしても、あなたはだれです。なぜ、そんないやな仮装《かそう》をしているのです」  弥生のはげしいことばを聞いて、あいてはしずかに仮面《かめん》をとると、 「お嬢さん、わたしですよ。等々力警部《とどろきけいぶ》です」 「あっ!」  弥生も、ふたりを取りまいている人びとも思わず叫《さけ》び声をあげた。 「ああ、それではもうひとりの金コウモリが、おとうさまを殺したのね。警部さん、あなたはなぜ、おとうさまを助けてはくださらなかったんです」 「お嬢さん、すみません。わたしはこの真珠塔《しんじゆとう》に気をとられていたものですから、……それにまさか、金コウモリのやつが、こんな恐《おそ》ろしいことをしようとは思わなかったから……」  等々力警部がめんぼくなげに頭をたれたときだった。 「おお、警部……等々力警部……」  うめくようにそうつぶやいたのは真珠王、それを聞くと弥生は、気がくるったように父のからだにとりすがって、 「ああ、 おとうさま、 気がおつきになりましたか。 しっかりしてください。 傷《きず》は浅いのですから」 「おお、弥生、わたしはもうだめだ。……警部、等々力警部……」 「はい、ご老人、なにかご用でございますか」 「もうひとりの金コウモリは……さっきの、もうひとりの金コウモリは……?」 「はあ、あいつのすがたはさっきから、このホールには見えませんが……」 「それじゃきっと、わしの書斎《しよさい》だ。わしの書斎へいってみてくれ。……あいつはきっと、書斎のなかでとらえられているにちがいない……」 「えっ、金コウモリがとらえられているんですって」 「そうじゃ、わしは金庫にしかけをしておいた。……それにしても、恐ろしいのは金コウモリ……わしの秘密《ひみつ》をなにもかも知っているのじゃ……ああ、三津木《みつぎ》くん、三津木|俊助《しゆんすけ》くん……」 「三津木くんは、まだ来ておりませんが、なにかおことづけでも……」 「おお、三津木くんにあったらいっておいてくれ。弥生をたのむと。……わしの書斎……金庫……はやくいってみて……神父さま、あなたもいっしょに。……ああ、8、4、1……」  謎のような柚木老人のことばに、等々力|警部《けいぶ》もいってよいやら、悪いやら、ちょっととまどいを感じたが、その肩《かた》に手をかけたのがニコラ神父。 「いってみましょう、警部さん、せっかくの柚木さんのおたのみですから」  ニコラ神父のことばに心をきめた等々力警部、あとは弥生や、いあわせた医者にまかせて神父とともにやって来たのは書斎である。  見ると、書斎のドアはあいており、なかへはいると、金庫のドアもあけっぱなしになっていたが、金コウモリのすがたはどこにも見えないのだ。 「どうしたんでしょう。柚木さんのことばによると、金コウモリはこの部屋《へや》にとらえられているということでしたが……」 「あれはやっぱり柚木老人の幻想《げんそう》だったんですね」  等々力警部はうなずきながら、なにげなく金庫のなかをのぞきこんだが、そのとたん、 「わっ、こ、これは……」  と、悲鳴をあげてとびのいた。それもそのはず、金庫のなかには、二本の鋼鉄《こうてつ》の歯にはさまれて、血まみれの手首がひとつ、ぶらさがっているではないか。  ああ、なんという恐《おそ》ろしさ。金コウモリの怪人《かいじん》は、逃《に》げる手段《しゆだん》のないことをさとると、みずから手首を切り落としていったのである。  等々力警部は身ぶるいしながら、その手首を見ていたが、きゅうにギョッと息をのみこんだ。なんとそれは女の手首ではないか。  そうすると、いま世間をさわがしている、金コウモリの怪人とは、女なのであろうか……。  さすがの等々力警部もあまりのことに、しばらくは口をきくこともできなかったが、そのうちにふと、女の手首がなにやら紙ぎれのようなものを、にぎっていることに気がついた。  手にとってみると、紙ぎれのうえにはただ三文字、8・4・1。    俊助《しゆんすけ》のゆくえ  それにしても、手首のにぎっている紙に書かれた8・4・1とはどういう意味か?   柚木《ゆのき》老人の秘密とはなにか? さてはまた、金コウモリにつれさられた三津木《みつぎ》俊助や探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴《みこしば》少年は、その後、どうなっただろうか。  こうして事件《じけん》はますます、怪奇《かいき》さと恐ろしさをましていくのだったが、ここでは柚木家のそのごのなりゆきは、しばらくおあずかりしておいて、探偵小僧御子柴|進《すすむ》少年のことから、筆をすすめていくことにしよう。  麻酔《ますい》ピストルの射撃《しやげき》をうけて、自動車のなかで気をうしなった進は、それから、どのくらい眠《ねむ》っていただろうか。ふと気がつくと、いつのまにやら、あかるい広場の、芝生《しばふ》のうえに寝《ね》かされているのだ。  空には暖《あたた》かい日がかがやいて、小鳥の声もにぎやかである。  進はしばらくきょとんとした顔で、青く晴れあがった空をながめていたが、ふっとゆうべのことを思い出すと、きゅうにサッと芝生のうえから起きなおった。そして、あわてて、きょろきょろあたりを見まわしたのである。  はじめのうち進にも、そこがどこだかわからなかった。しかし、しばらくあたりを見まわしているうちに、見おぼえのある野球場のスタンドや、記念館の建物から、そこが神宮外苑《じんぐうがいえん》であることに気がついた。  探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴少年は、寝ているあいだに、外苑の芝生のうえにほうり出されていたのである。(しかし、三津木さんは……?)  進は、またあわててあたりを見まわしたが、俊助の姿《すがた》はどこにも見あたらない。  ああ、それでは金コウモリの一味のものは、じぶんをここへほうり出しておいて、三津木俊助だけをどこかへ連れていってしまったのか……?  そう気がつくと進の胸《むね》には、にわかに不安がこみあげてきた。まるで小ウサギのように、ピョコンと芝生からとびあがると、いちもくさんに外苑をとび出し、ちょうど通りかかったタクシーをよびとめると、大いそぎで新日報社《しんにつぽうしや》へもどって来たが、そのときの社内の騒《さわ》ぎといったらなかった。  それはそうだろう。新日報社の宝《たから》といわれる花形記者、三津木俊助のゆくえが、ゆうべからわからないのである。悪者に誘拐《ゆうかい》されたのではないかという、疑《うたが》いさえもあるのだ。  そこで、社内はひっくりかえったような騒ぎを演《えん》じていたが、そこへ進だけが、ひょっこり帰って来たのだからたまらない。 「あっ、探偵小僧、きさまはいったいどこにいたんだ。三津木さんといっしょじゃなかったのか」 「ええ、いっしょだったんです。たいへんです、たいへんです。三津木さんは悪者にさらわれました。局長さんにあわせてください」 「よし、こっちへ来い」  進は山崎編集《やまざきへんしゆう》局長の前へ連れていかれると、ゆうべの出来事をのこらず話したが、それを聞いた人びとのおどろきといったらなかった。 「えっ、それじゃ三津木くんは金コウモリの一味のものに、連れていかれたのか」 「そうです、そうです。金コウモリのやつ、三津木さんがパーティーへくるとじゃまになるので、さきまわりをして連れていったんです」  さあ、それを聞いた新日報社《しんにつぽうしや》の騒《さわ》ぎはいよいよ大きくなった。  山崎|編集《へんしゆう》局長はすぐ警視庁《けいしちよう》へ電話をかけ、三津木俊助のそうさく願いを出すとともに、社内の記者を総動員《そうどういん》して、ゆくえをさがすことになった。  また、このことはその日の夕刊《ゆうかん》にも大きく出され、ラジオのニュースでも報道《ほうどう》されて一般《いつぱん》市民の協力がもとめられたが、それにもかかわらず、五日たっても、十日たっても、俊助のゆくえはわからない。  こうして、俊助が誘拐《ゆうかい》されてからはや半月。いまだにゆくえがわからないところを見ると、俊助はすでに殺され、死体のしまつをされてしまったのではないか……。  と、そういう疑《うたが》いが、しだいにこくなって、新日報社はふかい悲しみにつつまれてしまった。    こうして、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》のゆくえが、いつまでたってもわからないにつけ、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴《みこしば》少年の気持ちは、どんなだっただろう。  三津木俊助は進《すすむ》にとって、もっとも尊敬《そんけい》する人だった。進が新日報社へはいったのも、その人を慕《した》ったからなのである。  その俊助のゆくえがいまもってわからない。殺されているかもしれないというのだ。しかも、俊助が誘拐されるとき、じぶんもいっしょだったのに、じぶんだけはたすかって、三津木だけ災難《さいなん》にあってしまったのだ……。  そう考えると進は、胸《むね》も張《は》りさけるような気持ちだった。  しかし、進がいかに悲しみに沈《しず》んでいるとはいえ、新聞社につとめていれば、いろいろいそがしい用事がたくさんある。  きょうもきょうとて上役の命令で、銀座《ぎんざ》のほうへ出かけたが、その帰りがけ、銀座通りの歩道を、思いに沈んで歩いていると、ふいに耳もとで、アッというような、ひくい叫《さけ》び声がきこえた。  探偵小僧の御子柴少年は、その声にふっとふかい思いをやぶられて、あたりを見まわすと、そこは銀座でも有名なデパート、鶴屋《つるや》のショーウインドーの前だった。  そして、そのショーウインドーの前に、女の人がひとり立って、なにやら熱心にのぞいているのだが、そのようすがふっと進の好奇心《こうきしん》をそそった。  いま、アッとひくい叫びをあげたのは、この人だろうか。そうだ、あたりにだれもいないところを見ると、この人にちがいない。しかし、この人は、なぜあんな叫び声をあげたのだろう。そして、なにをあのように、熱心にのぞいているのであろう。  進もその人の左がわに立って、ショーウインドーのなかをのぞきこんだ。しかし、かくべつ変わったところも見あたらない。  それにもかかわらず、その人は大きく息をはずませながら、なにやら熱心に見ているのである。顔色を見ると、まっさおである。  進もショーウインドーの前の手すりに手をかけて、もういちど、ショーウインドーのなかをのぞこうとしたが、そのまえに、ハッとみょうなことに気がついた。  女の人もてすりのうえに両手をおいているのだが、進はその人の左手になにげなくふれたのだ。ところが、その手ざわりというのが、なんともいえぬほどへんてこなのだった。  女の人は絹《きぬ》の手袋《てぶくろ》をはめていたが、その手袋をとおして感じられる手ざわりというのが血のかよっている人間の手とは思えないのである。  進は、にわかに胸《むね》がドキドキした。それはこのあいだの柚木邸《ゆのきてい》のパーティーで、金コウモリがじぶんの左の手首からさきを、切り落として逃《に》げたということを聞いていたからである。しかも切り落とされた手首は女だったのだ……。  世のなかに手首からさきのない女が、そんなにたくさんあるとは思われない。それでは、ひょっとするとこの人が……。  進は思いきって、ギュッと女の左手をおさえてみた。しかし、あいてはまだ気がつかない。しかも、なんだかごつごつとしたその手ざわり……。  ああ、もうまちがいはない。この人は左の手首からさきがないのだ。そして、ゴムかなんかで作った義手《ぎしゆ》をはめているのだ……。  進は胸をドキドキさせながら、そっと女の人の横顔をながめた。  それは、とてもきれいな人だったが、進にはなんだかその顔に、見おぼえがあるような気がしてきた。 (だれだろう、どこでこの顔を見たのかしら)  そう考えているうちに、進はハッと思い出した。 「あっ、黒《くろ》河内晶子《こうちあきこ》さんだ!」  おもわず声に出して叫《さけ》んだので、女の人はギョッとしたように、進の顔をふりかえったが、そのまま、逃げるようにふらふらと、ショーウインドーの前をはなれていった。  進はぼうぜんとして、そのうしろすがたを見送っている。  黒河内晶子というのは、有名な映画《えいが》スターなのである。その人が金コウモリだなどとは、思いもよらない。しかし、あの手首は……?  どちらにしても、もう少しようすを見てやろうと、進は晶子のあとをつけていきかけたが、そのまえに、いったい晶子はなにをあのように、熱心にのぞいていたのかと、もういちど、ショーウインドーのほうをふりかえったとたん、進はそれこそ気が遠くなるようなショックをかんじたのだった。    真珠塔《しんじゆとう》の秘密《ひみつ》  ショーウインドーのなかは、洋家具セットの陳列《ちんれつ》だった。いすやテーブルや洋だんすのほかに大きなベッドがおいてあり、ベッドのうえにだれか寝《ね》ている。  はじめ見たとき進《すすむ》は、それをマネキンの人形だと思っていたのだ。ところが、いまあらためて見なおすと、それは人形ではなく人間なのである。しかも、なんと、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》ではないか。 「あっ、三津木さんだ、三津木さんだ。三津木俊助さんが、あんなとこに寝かされている」  進が、びっくりしてわめきたてたから、さあ、たいへん、鶴屋《つるや》の前は大騒《おおさわ》ぎになった。 「そうだ、そうだ、あの人だ。ぼくも新聞で写真を見たのでおぼえている。あれがゆくえ不明になっている三津木俊助さんだ」 「まあ、でも、どうしてあんなところに寝ているんでしょう。ひょっとすると殺されて……」  進も、はじめはてっきりそうだと思っていたのである。毛布《もうふ》にかくれて見えないけれど、どこかに、大きなきずをうけているのではないだろうか。  しかし、そうではなかったのだ。  騒ぎに気がついた店員が、ショーウインドーのなかにとびこみ、毛布をとってみたところ、俊助はどこもけがはなかったのである。いや死んでいるのではなく、生きていたのだ。ただ眠《ねむ》っているだけだったのである。  さあ、それからの騒ぎは、いまさらくだくだしく書き立てるまでもあるまい。  俊助のからだは、すぐに事務所へかつぎこまれると、まもなく医者がやってきた。その医者が手当てをしているあいだに、進が電話をかけたので、社から山崎編集《やまざきへんしゆう》局長はじめ、おおぜいの人がかけつけてきた。  さいわい、医者の手当てがよかったのか、俊助はそれからまもなく目をさましたが、じぶんがデパートの店頭に、かざりものにされていたということを知ると、唇《くちびる》をふるわせていきどおった。それはそうだろう。男として、これほど大きなはずかしめはないのだ。 「まあまあ、いいさ。いのちにまちがいがなかったのだから、これにこしたことはない」  と、山崎編集局長はなぐさめ顔に、 「とにかく、いろいろ話があるから、すぐ社に帰ろう」  と、それからまもなく連れだって、新日報社《しんにつぽうしや》へひきあげると、山崎編集局長はまず、あの夜、柚木邸《ゆのきてい》で起こったできごとを語ってきかせた。俊助はそれを聞くと、おどろきのあまり、ただもう目をまるくするばかりだったが、 「いや、そのほかにも、もっとみょうなことがあるんだよ。きみは、柚木老人の真珠塔《しんじゆとう》を知っているだろう」 「もちろん。ぼくはそれを見張《みは》るために、招待《しようたい》されていたんですから」 「ところが、おかしなことには、あの真珠塔は、にせものだったんだよ」 「な、な、なんですって、そ、そ、そんなばかな……だって柚木さんはあの真珠塔《しんじゆとう》をつくるために全財産《ぜんざいさん》を投げ出したというじゃありませんか」 「だから、おかしいんだ。柚木さんが殺されたあとで、等々力警部《とどろきけいぶ》が監督《かんとく》して、真珠塔を大金庫にしまおうとしたが、どうも少しおかしいので、専門家をよんで調べてもらったところが、あれは十万円もしないにせものだということがわかったんだ」 「じゃ、だれかがすりかえたんですか」 「いや、そんなひまはない。柚木さんはあの晩《ばん》、お客さんにじまんするために、なんども真珠塔のそばへより、なでたり、さすったりしていたというんだ。真珠にかけてはあんなに目のこえた人だから、にせものだったらすぐ気がつくはずだ。といって、柚木さんが殺されたあとで、すりかえられたなんてことは絶対《ぜつたい》ない。あれは一メートル以上もある大きなものだし、それに、等々力警部がたえず見張《みは》っていたのだから……」 「と、いうと……? どういうことになるんですか」 「つまりだね、これは等々力警部の意見もおなじだが、あの真珠塔ははじめから、にせものだったんだ。柚木老人は悪者にねらわれることを恐《おそ》れてはじめからにせものをつくっておいた。そして本物は、どこかべつのところにかくしてあるんだ」  俊助は、おもわず大きく目を見張った。 「べつのところって……」 「それが、どこだかわからない。わからないから困《こま》っているんだ。きみも知ってのとおり、柚木老人はあの真珠塔に全財産《ぜんざいさん》をかけられた。それがどこにあるかわからないということになると、弥生《やよい》さんは一文なしのからだになるんだ」  俊助はまた大きな目を見張った。そばで聞いている進も、おもわず手に汗《あせ》をにぎらずにはいられなかった。 「柚木老人はいつかそのことを、弥生さんに話すつもりだったろう。ところがきゅうに死なれたものだから、そのひまがなかったんだ。柚木老人は死ぬまえに、弥生さんのことを、三津木俊助さんにたのんでほしいと、等々力警部にことづけたそうだ。三津木くん、弥生さんのために、ぜひとも本物の真珠塔のありかを、さがしてあげてくれたまえ」  山崎|編集《へんしゆう》局長の話をだまって聞いていた俊助は、きゅうにキッとまゆをあげると、 「すると金コウモリのやつも、あの晩の真珠塔がにせものだということを知っていて、本物のありかをさがしているんですね」 「そうなんだ。そしてね、その本物のありかを知る、ただひとつの手がかりというのが、8・4・1という数字ではないかと思うんだ」 「8・4・1ですって?」 「そう、柚木老人は死ぬまえに、そういう数字をつぶやいたというし、また、金コウモリが切り落としていった手首も、同じ数字を書いた紙をにぎっていたんだ」 「8・4・1……8・4・1……しかし、それだけじゃ、なんのことだかわからない」  俊助は、首うなだれて考えこんだ。山崎編集局長はその肩《かた》をかるくたたいて、 「いや、それはあとでゆっくり考えるとして、それより三津木くん、こんどはきみの話をきこうじゃないか。きみはきょうまで、どこにいたんだ」  しかし、それに対する俊助の答えは、いたってかんたんだった。  目がさめたとき俊助は、どこともしれぬ穴《あな》ぐらのようなところに寝《ね》かされていたのである。その穴ぐらには、あついドアがついていたが、そのドアには小さい四角なのぞき穴があって、そこからマスクで顔をかくした人物が、三度の食事を入れてくれたのだ。 「ところが、ゆうべ食った食事の味が、少しへんだと思ったら、きゅうに眠《ねむ》くなって……きっとあのなかに、眠り薬がはいっていたんですね。そして眠っているあいだに、鶴屋《つるや》デパートのショーウインドーへ、運びこまれたんですね」  俊助は、いかにもくやしそうに歯ぎしりしたが、きゅうに思い出したように、 「そうそう、ぼくを最初に発見してくれたのは、探偵小僧《たんていこぞう》、きみだったそうだね。いや、ありがとう」  俊助に礼をいわれて、進はあかくなりながら、 「いえ、あの、ほんとをいうとぼくじゃないんです。ぼくよりさきに、気がついた人がいるんです。ところが、それが、とてもへんなんです」 「へんだって、なにがへんなんだ」 「ぼくよりさきに、三津木さんに気がついたのはほら、三津木さんも知ってるでしょう。あの有名な映画《えいが》スターの、黒《くろ》河内晶子《こうちあきこ》なんです。ところがあの人は左の手首からさきがないんです。義手《ぎしゆ》をはめているんです。だから、ひょっとすると、金コウモリというのは黒河内晶子……あっ」  進が、きゅうにいすからとびあがったので、山崎|編集《へんしゆう》局長と俊助が、びっくりしてドアのほうをふりかえると、なんと、そこへ幽霊《ゆうれい》のような顔をして、よろよろとはいってきたのは、いまうわさをしていた黒河内晶子ではないか。 「あっ、きみは黒河内くん、ど、どうしてここへやって来たんだ」 「先生! 三津木先生!」  晶子はまっさおな顔をして、ふらふらしながら、 「先生、わたしを助けてください。わたしは……、わたしは金コウモリの怪人《かいじん》なんでしょうか」 「な、な、なんだって?」 「わたしはあの恐《おそ》ろしい、金コウモリの怪人なんでしょうか。わたしが金コウモリになって、柚木さんを殺したのでしょうか」  晶子はうめくようにいって、はげしくからだをふるわせながら、 「わたしはなんにも知りません。しかし、やっぱりそうにちがいありませんわ。わたしこそ、金コウモリなんだわ。そして、この手で柚木さんを殺したんだわ」 「黒河内くん!」  俊助は、するどい目で晶子の顔を見つめながら、 「きみはなんだって、そんなばかげたことを考えるんだ。きみが金コウモリだなんて、そんな……そんなばかなことが……」 「でも、先生、これを見てください。しかも、わたしがこうなったのは、柚木さんのお宅《たく》で、仮装舞踏会《かそうぶとうかい》があった晩《ばん》からなんです」  そういいながら晶子は、右手で手袋《てぶくろ》をはめた左の指をにぎりしめると、力をこめてそれを引いたが、すると、ああ、なんということだろう。  晶子の左手が手首のところから、スポンと音を立てて抜《ぬ》けたではないか。    地獄《じごく》からの声  それにしても晶子《あきこ》の手首が、スポンと音を立てて抜けたときの、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》や進《すすむ》のおどろきは、どんなだっただろうか。 「あっ、黒《くろ》河内《こうち》くん、こ、これはどうしたんだ。きみはいつ左の手首をなくしたんだ」  俊助のことばに晶子は涙《なみだ》ぐみながら、 「先生、それがわたしにもわかりませんの。いつどうして手首を切り落とされたのか、わたしには少しもおぼえがありませんの」 「な、なんだって、きみ自身にもおぼえがないって。それはどういう意味なんだ」  晶子は涙にぬれた目をあげて、 「先生、こんなことをいっても信用していただけるかどうかわかりませんが、でも、ほんとうなんです。わたしには、あの晩の記憶《きおく》がぜんぜんございませんの」 「あの晩って、いつのこと?」 「はい、あの、柚木《ゆのき》さんの殺された晩」  と、晶子は三津木俊助や山崎編集《やまざきへんしゆう》局長、さては御子柴《みこしば》進を見ながら、さも、恐《おそ》ろしそうに肩《かた》をすくめて、 「あの晩、わたしはうちで本を読んでいました。ところが八時になって、なんともいえないみょうな気持ちになって……だれかが耳もとで、なにかささやいている感じなんです。わたし、一生けんめいに、その声とたたかっていましたが、そのうちに、ふうっと気が遠くなって、それからあとのことはなにひとつ、おぼえていないのです。ところが、そのうちに、はげしい痛《いた》みに気がつくと……」  晶子は恐ろしそうに身ぶるいをすると、 「母がまるで幽霊《ゆうれい》のような顔をして、そばに立っております。そして、晶子さん、その手首はどうしたのとききます。わたし、はっとして左の手に目をやりましたが、そのとたん、キャッと叫《さけ》んで、また気をうしなってしまったのです。いつのまにやらこの手首が切り落とされて……」  と晶子は涙をながしながら、 「それからまもなく、二度めに正気にかえったとき、あたしは母から恐ろしい話をききました。その晩《ばん》、わたしは柚木さんの仮装舞踏会《かそうぶとうかい》へ出席するといって、八時すぎに家を出たそうです。そして十一時すぎ、左の手首を切り落とされて、息もたえだえになって、うちへ帰って来たというんです」 「しかも、きみにはそういう記憶《きおく》がないんだね」 「はい、ぜんぜん。ああ、先生、わたし気が狂《くる》ったのでしょうか。それとも夢遊病《むゆうびよう》とやらで、柚木さんのところへいって……」  晶子はワッと泣きふしたが、それにしても、なんというふしぎな話だろう。  世に夢遊病者の話はままあるが、いまの晶子の話のような、恐《おそ》ろしい例がほかにあるだろうか。三人はゾッとしたように、晶子のようすを見まもっていたが、そのうちに、俊助が思い出したように、 「黒河内くん、きみはこのあいだ、自動車のなかで殺された、丹羽百合子《にわゆりこ》を知らないかね」 「はい、あの、ぞんじております。友だちではありませんが、あるところで、ちょくちょくお目にかかりました」 「あるところって、どこ……?」 「はい……あの……それは……」  晶子はなにかいおうとしたが、きゅうにはげしくからだをふるわせると、見る見るうちにその顔色が、なんともいえぬほど、気味悪くかわってきたのだ。 「黒河内くん、どうした、どうした」  俊助がおどろいて声をかけたが、晶子はすこしも聞こえぬらしく、ぼんやり前方を見ていたが、やがて口をひらいたかと思うと、 「おい、俊助、おれがだれだかわかるかい」  と、そういう声は、まるで地獄《じごく》から聞こえて来るような、気味の悪いしゃがれ声ではないか。一同がびっくりして、晶子の顔を見ていると、 「おい、俊助、おれは魔術師《まじゆつし》なんだ。人間を自由じざいにあやつる魔術使いだ」 「あっ、催眠術《さいみんじゆつ》だ!」  進がおもわず叫《さけ》ぶのを、 「しっ、黙《だま》っていたまえ」  と、一同がかたずをのんで聞いていると、晶子は世にも恐ろしいことをささやきはじめた。 「おれははじめ丹羽百合子を、手先に使っていたが、あいつだんだん催眠術がきかなくなったので、思いきって殺してしまった。そして、かわりに黒河内晶子を使うことにきめたんだ。うっふっふっ、わかったかい」  そこまでいうと晶子はまるで、泥人形《どろにんぎよう》がくずれるように、机《つくえ》のうえにつっ伏《ぷ》してしまった。  ああ、恐ろしい催眠術。それでは金コウモリの怪人《かいじん》は、催眠術で晶子をあやつり、人殺しまでさせたのか。三人はゾクリとからだをふるわせたが、そのときだった。キャッと悲鳴をあげたのは探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴少年である。 「あっ、あんなところに金コウモリが……」  その声にギョッとしてふりかえった三津木俊助と山崎|編集《へんしゆう》局長は、からだじゅうがしびれるようなおどろきにうたれた。  ああ、なんということだ。窓《まど》の外から金コウモリの怪人《かいじん》が、のぞいているではないか。つばびろ帽子《ぼうし》にどくろの仮面《かめん》、胸《むね》にぬいつけた金色のコウモリ、たしかにそれは金コウモリの怪人だが、それにしても怪人は、どうしてあんなところにいるのだろう。  そこは、新日報社《しんにつぽうしや》の五階である。窓の外には空気のほかにはなにもない。それにもかかわらず、金コウモリの怪人は、窓から一メートルほどはなれたところに、まるで雲をふむようなかっこうで、ふらふら立っているのである。それでは、金コウモリの怪人は、魔法使《まほうつか》いのように、自由に空を歩くことができるのだろうか。  さすがの三津木俊助も、全身の毛がさか立つばかりの恐《おそ》ろしさを感じたが、すぐ気をとりなおして、窓のそばへかけよると、そのとたん、怪人はフワリと窓から遠くはなれて、ふらふら上へあがっていった。 「待て!」  俊助が窓をひらいたとたん、 「あっ、だれかアドバルーンの綱《つな》にぶらさがっている!」  と、地上から叫《さけ》ぶ人の声。俊助もそれではじめて、怪人のやりかたがわかった。  新日報社の屋上には、アドバルーンがつないであったが、怪人はその綱を切り、綱のさきにぶらさがって、五階の窓からのぞいていたのである。そして、いまやアドバルーンの浮力《ふりよく》にひかれて、フワリフワリと空へまいあがっていくのだ。  そう気がつくと一同は、ただちに屋上へかけのぼったが、ちょうどそのとき金コウモリの怪人は、屋上から数メートルはなれたうえを、フワリフワリととんでいく。  道いく人がそれを見つけたからさあたいへん。有楽町《ゆうらくちよう》へんはいっぱいのひとだかり。 「わっ、金コウモリの怪人だ。金コウモリがアドバルーンにぶらさがって逃《に》げていくぞ」  俊助はじだんだふんでくやしがりながら、 「だれかあのアドバルーンをぶっこわせ。アドバルーンをこわして、怪人をつかまえろ!」  と、夢中《むちゆう》で叫んでいたが、しかし、アドバルーンは手のとどかぬ、はるかな空に浮《う》いているので、どうすることもできない。  ところが、ちょうどそのころ、新日報社《しんにつぽうしや》のとなりにある日本|劇場《げきじよう》には、ハリー・ダンカンというアメリカの有名な西部劇《せいぶげき》スターがきていて、射撃《しやげき》の妙技《みようぎ》を見せていた。  そのダンカンも騒《さわ》ぎを聞いて、日本劇場の屋上に出ていたが、いまの俊助の叫びがわかったのか、手に持っていた拳銃《けんじゆう》を取りなおすと、ねらいをさだめてズドンと一発。  さすがは射撃の名手である。ねらいたがわずアドバルーンに命中したからたまらない。ドカンと大きな音を立てて、アドバルーンが爆発《ばくはつ》したかと思うと、金コウモリの怪人《かいじん》はま下の大通りめがけて、石ころのように落ちてきた。 「わっ!」  歩道を歩いていた人びとは、それを見ると、くもの子のようにとび散る。それと見るなり俊助と進は、屋上からかけおり、新日報社をとび出すと、大通りめがけてかけつけた。  見ると大通りには、金コウモリの怪人が、長くなって倒《たお》れている。そのまわりにはやじうまが、黒山のようにむらがっていたが、だれも気味悪がって、そばへ近よろうとするものはいない。  三津木俊助と進は、やじうまをかきわけ、怪人のそばへかけよると、いきなりからだを抱《だ》き起こしたが、そのとたん、 「ちくしょう、いっぱいくわされた」  と、いかりにふるえる俊助の声。それもむりはなかったのである。  なんと、それは綿《わた》と布《ぬの》でつくった人形に、どくろの仮面《かめん》と、つばびろ帽子《ぼうし》、それにだぶだぶのマントが着せてあったのだ。 「三津木さん、しかし、金コウモリの怪人は、なんだってこんないたずらをしたんでしょう」  探偵小僧《たんていこぞう》にそういわれて、ハッと気がついた三津木俊助、 「しまった、探偵小僧、こい!」  と、大いそぎで編集《へんしゆう》局長室へ帰ってきたときには、晶子《あきこ》のすがたはすでになく、そこにはこんなことを書いた手紙がのこっていた。   晶子はおれがもらっていく。そのかわりいいことを教えてやろう。弥生《やよい》はいま、恐《おそ》ろしい危険《きけん》におちいっているぞ。はやくいって、助けてやれ。 [#地付き]金コウモリより   [#ここで字下げ終わり]   三津木俊助どの    柚木《ゆのき》博士《はかせ》  こうして金コウモリの怪人《かいじん》は、まんまと晶子をさらっていったが、いっぽう弥生の身には、どのような災難《さいなん》がふりかかっているのだろうか。それをものがたるためには、話を少しあとへもどさなければならない。  柚木真珠王《ゆのきしんじゆおう》がなくなってから、弥生のうちには、おじさんの柚木|博士《はかせ》という人がはいりこんでいた。柚木博士は真珠王の弟だが、真珠王はこの人をきらって、なるべくうちへよせつけないようにしていたのだ。ところが、真珠王がなくなると、博士はそれをよいことにして、弥生のうちへはいりこんできた。弥生も、この人を好かないのだが、いまではただひとりのおじだから、追い出すわけにもいかない。  そこで弥生はこのおじと、なるべく顔をあわせないように、いつも部屋《へや》に閉《と》じこもっていたが、すると、きょうになってまいこんだのがふしぎな手紙だった。   お嬢《じよう》さま、あなたのおとうさまがおつくりになった、本物の真珠塔《しんじゆとう》のありかを知りたかったら、今日、二時きっかりに、渋谷《しぶや》のセント・ニコラス教会までおいでください。表の石段《いしだん》の前に、黒衣の老婆《ろうば》がすわっていますから、その老婆に金をやれば、ありかを知らせてくれます。しかし、このことはだれにもいってはなりません。   「まあ!」  弥生はしばらく息をつめて、このふしぎな手紙を見つめていたが、そこへはいってきたのが柚木博士。博士は年ごろ四十|歳《さい》くらい。鼻めがねをかけ、口ひげをぴんとはねあげ、いかにももっともらしい顔をしているが、どこかゆだんのならぬ目つきである。 「弥生、どうかしたのかい。顔色が悪いよ」 「あら、おじさま、なんでもありませんの」  弥生は、あわてて手紙をかくした。 「なにもかくさなくてもいいじゃないか。いまの手紙にかわったことでも……」 「いいえ、べつに……それよりおじさま、いま、何時ごろかしら」 「ちょうど一時だよ」 「あらあら、たいへん。あたし、ちょっと出かけなければなりませんのよ」 「出かけるって? わたしもいっしょに……」 「いいえ、いいんですの。おじさまはむこうへいってらして……」  柚木博士を押《お》し出すように部屋《へや》から出すと、弥生は手ばやくふしぎな手紙を、本のあいだにはさみこんだ。それから大いそぎで身じたくすると、うちからとび出していったが、するとあとから弥生の部屋へはいってきたのは、柚木博士だ。 「はてな、いまの手紙をどこへかくしたかな」  と、しばらくそこらをさがしていたが、本のあいだとは気がつくわけがない。 「まあ、いいや、どうせ行き先はわかっているんだから」  と、みょうなことをつぶやくと、弥生のあとからとび出したが、それにしても、なっとくがいかないのは、いまのことばである。行き先はわかっているというところを見ると、博士は手紙のなかみを知っているのだろうか。なににしても、怪《あや》しいのは博士のそぶりである。  それはさておき、差出人もわからぬ手紙にさそわれて、家をとび出した弥生の行動は、むちゃといえばむちゃだったが、それにはわけがあったのだ。  柚木|真珠王《しんじゆおう》がカトリックの信者だったことは、まえにも話したが、その真珠王がいつもおまいりするのがセント・ニコラス教会で、そこの司祭がニコラ神父だった。  しかも、去年、教会の大|修理《しゆうり》をしたときなど、真珠王がひとりで費用を受け持ったくらいだから、ひょっとするとこの教会のどこかに、真珠塔《しんじゆとう》がかくしてあるのかもしれないと、弥生が考えたのもむりではなかったのである。  さて、弥生が教会の前までくると、老婆《ろうば》がひとりすわっていた。黒いマントと黒いずきんで、顔はよく見えないが、たしかに手紙にあった老婆にちがいない。  弥生は胸《むね》をおどらせながら、老婆のそばに近よると、千円札を一枚老婆の前に落とした。すると老婆が無言のまま、取り出したのは一|枚《まい》の紙きれである。それを弥生に手わたすと、老婆はのっそり立ちあがって、片足をひきずりながら立ち去った。  弥生がその紙きれに目を落とすと、    十三番めの聖母《せいぼ》——胸の文字盤《もじばん》——八時、四時、一時——  と、ただそれだけ書いてある。  それはまるで、おまじないみたいなもんくだったが、弥生はおもわずハッとした。ほかの人にはわからぬもんくも、弥生には思いあたるところがあったからだ。  柚木真珠王は死ぬ少しまえに、この教会へ十三体の聖母像《せいぼぞう》を寄進《きしん》したことがあった。その聖母像はいまも祭壇《さいだん》のまわりに、安置されているはずなのである。ひょっとすると、その聖母像のなかに、ほんものの真珠塔が、かくされているのではあるまいか。  弥生はいそいで、教会のなかへはいっていった。広い礼拝堂《らいはいどう》にはひとけもなく、なんとなくはだ寒いかんじがする。見ると祭壇のまわりには、十三体の聖母像が立っていた。  弥生はその像を右からかぞえて、十三番めの聖母の前に立って、胸のところを調べてみたが、すると、あった、あった。それはよほど気をつけなければわからぬような、小さな文字盤だったが、時計《とけい》とおなじ目盛《めも》りになって、二本の針《はり》までついているのだ。  弥生はハッと胸をとどろかせながら、もういちどさっきのもんくを見なおした。  八時、四時、一時——8・4・1。  わかった、わかった。これこそ金庫のなかの怪文字《かいもんじ》、8・4・1の秘密《ひみつ》なのにちがいない。  弥生は胸をドキドキさせながら、八時のところへ針をやった。それから四時、ついで一時と針をまわしたとたん、どこかでギリギリと、クサリのふれあうような音がした。  弥生《やよい》がハッと目を見張《みは》っていると、ガタンとひくい音を立てながら、聖母の像がうしろへすべり出したではないか。  弥生はおもわず二、三歩うしろへとびのいたが、聖母の像は約三メートルばかりうしろにさがると、そこにぴったりとまった。  そして、そのあとにぽっかりあいているのは、まっ暗な地下道の入り口である。 「まあ!」  弥生はおもわず息をはずませた。ああやっぱりそうだったのだ。この地下道のどこかに真珠塔がかくしてあるのだ!  弥生はちょっとためらいながら、あたりを見まわしていたが、見ると祭壇《さいだん》の前に、ロウソクが立っている。弥生はそれを取りあげると、マッチで火をつけ、地下道のなかへもぐりこんだ。  地下道にははじめ、十五|段《だん》くらいのかたい石段《いしだん》があり、それをおりると、こんどは横にせまいトンネルがついている。トンネルのなかはむろんまっ暗である。弥生はロウソクを片手《かたて》に、そろそろと、そのトンネルを歩いていった。  あたりは墓場《はかば》のようなしずけさだ。そして、海の底にでもいるような、ひえびえとした空気が膚《はだ》をさすのである。弥生はまるで、夢《ゆめ》のなかの人物になったような気持ちで、トンネルのなかを進んでいったが、しばらくいくと、ふいにギョッとして立ちどまった。  ああ、なんと、まっ暗なトンネルのはるかむこうに、糸のように細い光のひとすじが、もれているではないか。  どうやら、ドアのすきまをもれる光らしいのだ。ドアがあるとすると、このトンネルには部屋《へや》があるのだろうか。  地下のトンネルに部屋がある——  弥生は、なんともいえぬ気味悪さをかんじたが、思いきってロウソクをかき消すと、足音をしのばせ、光を目あてに暗いトンネルを進んでいった。やがて、光の近くまでくると、それはやっぱり、部屋があって、ドアのすきまからもれるあかりだった。  それでは、だれかこの部屋にいるのだろうか。  弥生はドアの前に近よると、全身の神経《しんけい》を耳にあつめて、部屋のなかのようすをうかがった。しかし、ドアのむこうはしーんとして、人のけはいはない。  弥生は思いきって、ドアのとってに手をかけると、そろそろそれを開いた。二センチ、三センチ、五センチ。……とつぜん、弥生はあれっと叫《さけ》んでとびのくと、ひしと両手で顔をおおった。  ドアのすきまから、フワリと飛び出したのは、ああ、なんと、あの気味悪い金色のコウモリではないか。 「あっはっは、弥生さん、なにもおどろくことはない。さあさあ、こっちへはいりなさい」  そういう声にギョッとして、部屋のなかに目をやった弥生は、とつぜん、からだじゅうがしびれるような恐《おそ》ろしさをかんじたのである。  部屋のなかに立っているのは、なんと、金コウモリの怪人《かいじん》ではないか。 「あれっ!」  と、叫んで、弥生は逃《に》げようとしたが、そのうしろからおどりかかった金コウモリ。 「あっはっは、逃げなくてもいいじゃないか。さあ、おはいり、おまえにすこし話があるんだ」 「いやです、いやです。かんにんしてください。それでは、さっきの手紙はうそだったのですね。あなたがあたしをだましたのですね」 「あっはっは。だましたといえばだましたようなもんだが、しかし、だまされたのはおまえばかりじゃないよ。こういうわたしも、おまえのおとうさんにだまされたんだ」 「えッ、おとうさんに……?」  弥生は恐ろしさも忘《わす》れて、あいての顔を見なおした。  いつものとおり、気味の悪いどくろの仮面《かめん》をかぶっているので、いったいだれだかわからないが、なんだかその声に聞きおぼえがあるような気がしたのである。  はて、いったい、だれだろう? 「そうだ、おまえのおやじにだまされたんだ。ほら、おまえも知ってるだろう、金庫のなかから出てきた記号、あれはたしか8・4・1という数字だったね。8・4・1すなわちヤヨイ……つまり、おまえの名まえなんだ」  弥生は、ギョッと息をのみこんだ。  それではあの数字は、じぶんの名をあらわしていたのか。しかし、それはなぜだろう……?  金コウモリはことばをついで、 「ところで、三つの数字を合計すると、十三という数になる。それでおれはおまえのおやじと、十三という数と関係はないかと考えた。すると、ハッと思い出したのが、この教会にある十三体の聖母像《せいぼぞう》。これは、おまえのおやじが寄付《きふ》したものだから、もしやと思って調べたところがあのとおり、時計《とけい》の文字盤《もじばん》みたいなものがある。それを見つけたときのおれのよろこび。てっきり真珠塔《しんじゆとう》のありかを、つきとめたと思ったのだが……」  と、そこで金コウモリは歯ぎしりすると、 「いまから思えば、それが罠《わな》だったのだな。ほんとうの真珠塔のありかから、目をくらますためにおまえのおやじが、わざとあんなものを作っておいたんだ。真珠塔はここにはない。もっと、ほかの場所にかくしてあるんだ」 「もっと、ほかの場所って……?」 「弥生さん、それをおまえに聞きたいんだ」 「えっ、あたしに……?」 「そうだ。秘密《ひみつ》の記号がヤヨイと読めるからには、きっとおまえに関係したことにちがいない。おまえじしんは気がつかずとも、おまえの身のまわりに、ヤヨイという記号に関係したものが、あるにちがいない」  金コウモリのことばをきいて、弥生はハッと顔色を変えた。 「あっはっは、思い出したね。いったい、なんだ、ヤヨイという記号がしめしているのは」 「いいえ、知りません、知りません」 「知らない? そんなことがあるもんか。おまえの顔にちゃんと書いてある、知っていると……。さあ、いえ。どこにかくしてあるんだ」 「いえ、知りません、知りません。たとえ知っていたとしても、なぜあなたみたいなひとに、教えてあげなければならないの」 「なぜ、おれに教えなければならないかって? よし、そのわけを教えてやろう」  金コウモリは、そこにある小さなタルのうえにロウソクを立てて、それに火をともした。 「おい、弥生、このタルのなかになにがはいっているか知っているか。これはダイナマイトだぞ」 「あれっ!」  弥生はまっさおになって、逃《に》げようとしたが、うしろからおどりかかった金コウモリのためにがんじがらめにしばりあげられてしまった。 「おい、弥生《やよい》、このロウソクが根もとまでもえつくせば、ダイナマイトに火がうつって、おまえのからだは木《こ》っ端《ぱ》みじんとなってふっとぶのだぞ。つまり、これが秘密《ひみつ》をおれに教えてくれなければならぬわけさ。あっはっは」  床《ゆか》のうえにおしころがされた、弥生の顔をのぞきこみながら、あざけるように笑う金コウモリの声の恐《おそ》ろしさ!    地下室の泣き声  さて、こちらは三津木俊助《みつぎしゆんすけ》と、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》少年である。  金コウモリに教えられて、取るものも取りあえずやって来たのは柚木邸《ゆのきてい》。お手伝いさんに聞くと、お嬢《じよう》さんはついさきほど、お出かけになったとばかりで、いくさきはわからない。 「しまった。おそかったか。しかし、ともかく部屋《へや》を見せてください。なにか手がかりがあるかもしれない」  と、弥生の部屋を調べた俊助と探偵小僧、そこは職業《しよくぎよう》だけあって、まもなく本のあいだにはさんである、無名の手紙を発見した。 「三津木さん、それじゃ弥生さんは、この手紙におびき出されて……」 「セント・ニコラス教会へいったんだな。よし、いってみよう」  ふたりはすぐにとび出したが、それにしてもふしぎなのは、金コウモリの怪人《かいじん》である。いっぽうで弥生をとらえながら、いっぽうで俊助に弥生をたすけてやれというのは、どういうわけだろう。  それはさておき、ふたりが教会の前へたどりついたのは、弥生におくれること約半時間。 「あっ、三津木さん、ここに小さな靴《くつ》あとがついています。もしや弥生さんでは……」 「よし、この靴のあとをつけていこう」  俊助は懐中《かいちゆう》電灯を取り出すと、うす暗い教会のなかへはいっていった。靴あとは祭壇《さいだん》のうえまでつづいていたが、そこでふっつり消えているのである。 「おや、足あとはここで消えている」 「おい、探偵小僧《たんていこぞう》、そのへんに秘密《ひみつ》のおとし戸はないか、調べてみろ」  ふたりがむちゅうでそのへんを調べているところへ、靴の音が聞こえて来た。俊助《しゆんすけ》がギクッとして懐中電灯の光をむけると、そのなかに浮《う》かびあがったのは、黒い僧服《そうふく》に身をつつんだ外国人。いうまでもなく、この教会の司祭《しさい》、ニコラ神父である。 「あなたはだれ? なにをしているのですか」  さすがは長年、日本に住みなれて、おおくの信者を持っているだけあって、日本語はじょうずである。  身のたけは二メートルあまり、鬼《おに》をもひしぐたくましさだが、おだやかな顔つきには、子供《こども》もなつく徳《とく》がそなわっている。年は六十|歳《さい》前後だろうか。銀のようにひかる白髪《はくはつ》が、うつくしいのである。 「いや、これは失礼しました。じつはこの教会にたずねるひとがありまして……」 「いったい、だれ?」 「柚木真珠王《ゆのきしんじゆおう》のお嬢《じよう》さんの、弥生さんというひとですが……」 「ミス弥生が……ど、どうかしましたか?」 「じつはこの教会のなかから、ゆくえがわからなくなったらしいのです」  ニコラ神父は目をまるくしていたが、ふいに両手をあげて、ふたりをおさえつけると、 「おききなさい。床《ゆか》に耳をあててお聞きなさい」 「えっ、な、なんですって?」 「わたし、さっき聞きました。地の底でだれかが泣いているような声……わたし、ふしぎに思ってここまで来ました」  それを聞くと俊助と探偵小僧は、床のうえに腹《はら》ばいになり、耳をすましていたが、ああ、聞こえる、聞こえる。遠く、かすかに聞こえるのは、たしかに女の泣きごえである。 「神父さま、この教会には地下室があるのですか」 「いいえ、わたし、知りません。しかし、昨年、柚木真珠王がこの教会を修理《しゆうり》しましたから……。あっ、そこにあるのはなんですか」  見ると、十三番めの聖母《せいぼ》のしたから、ひらひらとのぞいているのは、桃色《ももいろ》のきれではないか。 「あっ、こ、これは女の洋服のきれはしだ。そ、それじゃ、ここに抜《ぬ》け穴《あな》が……」  俊助と探偵小僧が、聖母像《せいぼぞう》をのけようとしたが、そんなことではびくともしない。 「探偵小僧、ちょっと待て、なにかしかけがあるにちがいないよ」  俊助は注意ぶかく、聖母像を調べていたが、すぐにあの文字盤《もじばん》の秘密《ひみつ》を発見した。 「あっ、わかった、わかった、この時計《とけい》だ。これが8・4・1の秘密なのだ。そうだ、ひとつやってみよう」  俊助が一度、二度、三度、文字盤の針《はり》を動かすと、とつぜん、ガタンと音をたてて、聖母像がうしろにさがったが、そのとたん、女の泣き声がさっきより、よほどちかくに聞こえてきた。   「どうだ、弥生《やよい》、これでもヤヨイの秘密を白状《はくじよう》しないか」  がらんとした穴《あな》ぐらのなかの一室に、金コウモリの声が気味悪くひびいている。ロウソクはもうあますところ二センチばかり。ロウソクのしずくがポタポタと、タルのうえに流れるたびに、弥生は身がすくむばかりの恐《おそ》ろしさである。これこそいのちをきざむ、悪魔《あくま》の時計《とけい》なのだ。 「いやです、いやです。あたしこのまま死んでもいいわ。だれが……だれが、おまえなんかに話してやるもんか」 「それじゃ、このままダイナマイトが爆発《ばくはつ》してもいいというのか」 「いいわ、しかたがないわ。そのかわりおまえもいっしょに死んでおしまい」 「あっはっは、ばかなことをいっちゃいけない。おれが死んでたまるもんか。いよいよおまえが白状せぬとあれば、おれはこのまま出ていくまでだ。そして、真珠塔《しんじゆとう》のありかは、きっとじぶんでさがして見せる」  金コウモリはやおら立ちあがると、 「おい、弥生、これがさいごだ。もう一度きくが、ヤヨイの秘密とはなんのことだ」  気味の悪いどくろ仮面《かめん》のうしろから、恐ろしい目が光っている。しかし、弥生はもうかくごをきめていた。 「知りません、知りません。だれがおまえなんかに話すもんですか」 「ようし、よくもいったな。見ろ、このロウソクを。……もう、あと三分とは持つまいよ。しかし、それだけの時間があれば、おれがこの教会から出ていくにはじゅうぶんだ。弥生、せいぜい神様にお祈《いの》りでもしておけ。あっはっはっは!」  いじの悪い笑い声をあとにのこして、金コウモリの怪人《かいじん》は、ドアをひらいて一歩外へふみ出したが、そのとたん、 「わっ!」  と、おどろきの声をあげると、もんどりうって床《ゆか》のうえに、たたきつけられた。  おどろいたのは弥生である。何ごとが起こったのかと頭をあげると、そのとき、どやどやとはいってきたのは三津木俊助《みつぎしゆんすけ》と御子柴進《みこしばすすむ》、それにニコラ神父もいっしょだった。  俊助は起きあがろうとする金コウモリのうえに、すばやく馬乗りになると、 「ああ、きみは弥生さんだね。ぼくは三津木俊助だ。われわれがやってきたからにはもう心配はない。おい、探偵小僧《たんていこぞう》、はやく弥生さんのナワを解《と》いてあげなさい」 「いえ、いえ、あたしよりロウソクを吹《ふ》き消して。はやく、はやく!」  気がくるったような弥生のことばに、進はあわててロウソクを消したが、それはじつにあぶないせとぎわだった。  もう一しゅん、ロウソクを消すのがおくれたら、ダイナマイトに火がうつり、一同は木《こ》っ端《ぱ》みじんになってふっとんだことだろう。  そのあいだに、ニコラ神父が、すばやく弥生のナワを解《と》いた。  俊助はぐったりしている金コウモリの怪人《かいじん》をひっぱり起こすと、 「あっはっは、とうとうつかまえたぞ、金コウモリの怪人を。……どんな顔をしているのか、ひとつ見てやろう」  と、どくろの仮面《かめん》をはぎとったが、弥生はひとめその顔を見て、 「あっ、あなたはおじさま!」  と、まっさおになったのもむりはない。なんとそれは、柚木《ゆのき》博士《はかせ》ではないか。 「な、な、なんだって? そ、それじゃこれはきみのおじさんなの」 「そうです。このひとはおじの柚木博士です。それじゃ、金コウモリの怪人はおじさまだったの」  三津木俊助にぶんなぐられて、さっきの元気はどこへやら、柚木博士はすっかりしょげていたが、弥生のことばをきくと、あわてて首を左右にふった。 「ちがう、ちがう! わしはそんな恐《おそ》ろしいものじゃない。弥生をおどかしてやろうと、ちょっと金コウモリのまねをしていたのじゃ」 「そして,あたしをダイナマイトで殺そうとしたのね。ああ、わかったわ。おじさまは金コウモリではないかもしれないけど、金コウモリとおなじように、真珠塔《しんじゆとう》をねらっているのね」  金コウモリの怪人が、あまりやすやすとつかまったので、ちょっと変だと思っていたら、やっぱりこれは金コウモリではないらしいので、俊助はちょっとがっかりした。それと同時に、いくらかゆだんもあったのである。 「柚木博士、とにかくいっしょに来たまえ」  かるく手をとろうとしたときだった。ガアンとばかり柚木博士の一撃《いちげき》が、俊助のあごへとんだかと思うと、 「あっ、な、なにをする!」  よろめきながら俊助が、叫《さけ》んだときはおそかったのだ。身をひるがえした柚木博士が、駆《か》けよったのはいっぽうの壁《かべ》、ぴたりとそこに吸《す》いついたかと思うと、あっというまもなかった。壁の一部分がくるりと回転したかと思うと、博士のすがたは消えてしまったのである。    8・4・1の秘密《ひみつ》 「しまった!」  俊助《しゆんすけ》はあわててあとを追いかけたが、どういうしかけになっているのか、壁はびくとも動かない。 「あっはっは、ざまあ見ろ。おまえたち、この地下道でくたばってしまえ!」  あざけるような一言をのこして、柚木《ゆのき》博士《はかせ》の足音は、しだいに遠くなっていった。 「ちくしょう、ちくしょう、待て!」  俊助はじだんだふんでくやしがったが、そばからニコラ神父がなぐさめるように、 「三津木《みつぎ》さん、ここにこうしていてもしかたがない。とにかくはやく外へ出ましょう」 「そうだ。そして一刻《いつこく》もはやくあいつをつかまえなきゃ……」  そこで一同は連れだって、トンネルを通って、出口の石段《いしだん》のところまできたが、先頭に立ってその石段をのぼっていったニコラ神父が、とつぜんびっくりしたように、 「あっ、しまった! 出口がしまっている!」 「なに、出口がしまっている……?」  俊助が懐中《かいちゆう》電灯で調べてみると、なるほどあつい鉄板が、ピタリと出口の天井《てんじよう》をふさいでいるではないか。  おどろいた俊助と進《すすむ》は、それを押《お》したりたたいたり、なんとか開こうとしたが、あつい鉄板はびくともしない。 「まあ、どうしましょう。それじゃ、あたしたちここから出られないの」  弥生《やよい》はまっさおになったが、ニコラ神父がそれをなぐさめるように、 「なに、心配することはありません。朝になったら掃除《そうじ》の人が、うえの祭壇《さいだん》を掃除にきます。そのときここから声をかけて、聖母像《せいぼぞう》の動かし方を教えてやり、なんとかして、この鉄板を開いてもらえばよろしい」 「神父さま、それじゃ朝までこんなところで、しんぼうしなければなりませんの」  弥生は、いかにも心ぼそそうである。 「この鉄板が開かないとすれば、神父さまのおっしゃるとおり、朝まで待つよりしかたがないが……御子柴《みこしば》くん、もう一度やってみよう。神父さまも手をかしてください」  そこで、三人力をあわせてもう一度、頭のうえの鉄板を、押したりたたいたりしていたが、やっぱりびくともしないのだ。  俊助はあきらめて石段に腰《こし》をおろすと、 「さあ、みんなもここへ腰をおろしなさい。朝まで待つとすると、立ってはいられないよ。それに懐中電灯も朝までもたないからね」  俊助が懐中電灯を消したので、あたりはまっ暗になった。弥生はいまさらのように心ぼそさが身にしみて、しくしく泣いている。俊助はなぐさめて、 「弥生さん、泣くのはおやめ、それより柚木博士はさっき、弥生さんをどうしようとしたの」 「ああ、あのこと! 三津木先生、8・4・1の秘密《ひみつ》がとけましたのよ」 「なに、8・4・1の秘密がとけたって?」 「そうなんです。8・4・1というのは、ヤヨイという意味にちがいないというんです。だからあたしの名に関係したなにかが、どこかにあるだろう、それをいえというんです」 「あっ、そ、それで弥生さんはなにか心あたりがあるの?」 「ええ、あるんです。おじさまにはいいませんでしたけれど、じつは……」  と、いいかけて弥生はためらった。俊助は、それをはげますように、 「なに、だいじょうぶ。ここにいるのは味方ばかりだから。それで、ヤヨイというのは……?」 「おとうさまはこの春、向島《むこうじま》に一|軒《けん》の家をたてましたの。そして、それを弥生荘《やよいそう》と名づけたんです。このことはだれにもないしょにしていたんですが、ひょっとすると、真珠塔《しんじゆとう》はそこにかくしてあるんじゃないでしょうか。その家には、大きな時計塔《とけいとう》がありますの」 「そ、それだ! それこそほんものの8・4・1の秘密にちがいない!」  ああ、こうして8・4・1の秘密はとけた。俊助はこおどりしてよろこんだが、そのとき、とつぜん進が、 「あっ、三津木さん、あの音はなんでしょう」 「な、なに、なんの音……?」 「ほら、あのごうごうという音!」 「ええっ?」  一同が暗闇《くらやみ》のなかで、ハッと耳をすましていると、なるほど地下道の空気をふるわして、ごうごうというひびきが、しだいにこちらへ近づいてくるではないか。  俊助は石段《いしだん》を五、六段かけおりると、懐中《かいちゆう》電灯の光をトンネルにさしむけたが、そのとたん、髪《かみ》の毛がまっ白になるような恐《おそ》ろしさをかんじたのである。  なんとトンネルのむこうから、にごった水が、つなみのようにアワだちながら、こちらへ押《お》しよせてくるではないか。 「あっ、しまった。水だ! 水だ! ちくしょう。柚木博士のやつ、われわれをここへとじこめて、水攻《みずぜ》めにしようというのだ!」  俊助はいまさらのように、柚木博士の恐ろしい悪だくみに気がついたが、しかし、いまとなってはもうおそい。まっ黒に濁《にご》った水が、ごうごうとアワを立てながら、トンネルのむこうから押しよせてくる。 そして、 またたくまに階段《かいだん》のしたのほうから、 水びたしにしていくのである。 「あっ、三津木先生、それじゃ、あたしたちここで、水攻めになって死んでしまうの。いやよ、いやよ、あたし死ぬのいや!」  弥生は恐怖《きようふ》におののきながら、死にものぐるいの声をあげた。 「だいじょうぶ。死にゃしない。きっとたすかる。ちくしょう、きっとどこかにたすかるみちがあるにちがいないんだ」  俊助は階段《かいだん》のとちゅうに立って、血走った目でトンネルのなかを見ていたが、悪魔《あくま》の水は恐ろしい勢《いきお》いでふえていくばかり。俊助はもう階段に立っていられなくなって、一同のところへあがってきた。そして、 「御子柴くん、ニコラ先生、力をかしてください。もう一度、天井《てんじよう》のおとし戸を……」  そういって、三人は死にものぐるいで天井の、おとし戸を開こうとしたが、なんどやっても同じこと、押《お》せどもつけども、厚《あつ》い鉄のおとし戸はびくともしない。  しかも濁流《だくりゆう》は刻々《こくこく》として、階段をはいのぼってくる。もう五、六段も水位がたかまればいま一同の立っている土間《どま》まで、水がやってくることだろう。そして、それからさらに水位がたかまれば、一同は逃《に》げるみちもなく、濁流にのまれて死んでしまうにきまっている。 「ああ、先生、三津木先生……」  弥生はもう気がとおくなりそうだった。そのとき、なにを思ったのかニコラ神父が、 「みなさん、ここにいてください。わたしがちょっと水のようすを見てきましょう」  と、階段をおりかけたから、おどろいたのは三津木俊助と探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴少年だ。 「神父さま、およしなさい。あぶないから」  と、あわててとめたが、ニコラ神父はやさしく笑って、 「いいえ、だいじょうぶ。わたしには神様がついていてくださいます。心配はいりません」  と、二、三段おりていったが、どうしたはずみか、足をすべらしたからたまらない。 「あっ! 神父さま!」  と、三津木俊助と進が、あわててかけよったときにはニコラ神父はもんどりうって、濁流のなかへころげ落ちていった。 「あっ、いけない、神父さま!」  俊助があわてて照らす懐中《かいちゆう》電灯の光のなかに、一しゅん神父のすがたが見えたが、つぎのしゅんかん水にのまれて……どうやら、トンネルのなかへひきこまれていくらしい。 「三津木さん、ぼく、さがしてきます」  勇かんなのは進である。すばやく上着をぬぎ捨《す》てると、ざぶんと水にとびこんだ。  そして、たくみに抜《ぬ》き手をきりながら、まっ暗なトンネルのなかへ泳いでいくと、 「神父さま、神父さま」  と、声をかけたが、どこからも返事はなく、ごうごうと渦巻《うずま》く水の音にまじって、じぶんの声がただいたずらに、こだまとなってかえってくるばかり。 「神父さま……神父さ……」  進はもう一度、声をかけようとしたが、なにを思ったのか、きゅうにギョッと息をのみこんだ。  ああ、なんということだ。水面からトンネルの天井《てんじよう》までは、もう一メートルもないのだが、そのあいだを怪《あや》しい金コウモリが、一ぴき、二ひき、三びき、鬼火《おにび》のような光をはなって、ヒラヒラと飛んでいるではないか。    ニコラ神父のゆくえ 「御子柴《みこしば》くん、どうした。ニコラ神父は……?」 「神父さまのすがたは見えません。そのかわり、三津木《みつぎ》さん、金コウモリがとんでいるんです。トンネルのなかを金コウモリが……」 「な、なに、トンネルのなかを金コウモリが……?」  俊助《しゆんすけ》はおもわず息をのみこんだ。  それではいまじぶんたちを、このような恐《おそ》ろしい罠《わな》におとしいれた柚木《ゆのき》博士《はかせ》が、やっぱりほんものの金コウモリの怪人《かいじん》なのだろうか。 「そうだわ、そうだわ。おじさまが金コウモリの怪人なんだわ。そして、おとうさまのお作りになった真珠塔《しんじゆとう》をねらっているんだわ」 「ちくしょう、ちくしょう。このおとし戸め」  俊助はまたやっきとなって、天井《てんじよう》のおとし戸をたたいた。そのおとし戸さえ開いてくれれば、たちどころに、金コウモリの怪人を、つかまえることができるのに……。 「三津木さん、神父さまはどうしましょう」 「どうするって、御子柴くん、これを見たまえ」  そういいながら俊助は、懐中《かいちゆう》電灯の光を階段《かいだん》のほうへむけたが、そのとたん、弥生《やよい》はまっさおになってしまった。  ああ、なんということだろう。階段はもうすっかり水にのまれて、恐ろしい悪魔《あくま》の水は、いまや三人の足もとまで押《お》しよせているのである。 「もうこうなったら神父さまを、さがしにいくこともできないよ。お気のどくだが神父さまは、トンネルのなかで……」  おぼれて死んでしまわれたろうといいかけて、さすがに俊助は口をつぐんだ。しかし、弥生はそれを察して、 「そして、そのつぎにはあたしたちが死ぬのね。ネズミのように水におぼれて……」  弥生はすすり泣きをしている。  俊助はなんとかいって、なぐさめようとしたが、なぐさめることばも見つからない。  恐ろしい悪魔の水はどんどんふえて、みるみるうちに一同の、くるぶしからひざ、ひざから腰《こし》へはいのぼってくるのだ。 「弥生さん、御子柴くん」 「はい」 「三人しっかりつかまっていよう。死なばもろともだ。あっはっは、しかし、さいごまで希望をうしなっちゃいけないぜ。勇気を出して……」  しかし、希望をうしなってはならぬといわれても、どうして希望が持てるだろうか。水ははや胸《むね》から肩《かた》のへんまでのぼってきて、いちばん小さい弥生は、どうかするとふらふらと、水にのまれてしまいそうである。 「弥生さん、しっかりして!」 「三津木先生……御子柴さん……あたし、もう、だめだわ……」  すすり泣くような声をのこして、弥生は俊助の胸《むね》に抱《だ》かれたまま、ぐったりと気をうしなってしまった。 「かわいそうに。しかし、気をうしなっていたほうがいいかもしれん。御子柴くん、御子柴くん!」 「は、はい、ぼくはここにいます」 「そうか。よし、さあ、しっかり手をにぎっていよう。なあに、負けるものか。金コウモリなんかに負けるもんか。きっとたすかる。きっとたすかるから、気をたしかに持っているんだぞ」 「はい、ぼくはだいじょうぶです」  こうして三人はずいぶんながいあいだ、恐《おそ》ろしい悪魔《あくま》の水のなかに立っていた。  俊助が懐中《かいちゆう》電灯をぬらさぬように、帽子《ぼうし》のなかへいれてしまったので、あたりはうるしでぬりつぶしたようにまっ暗だ。さっきまで聞こえていた、あのごうごうという水の音もまったく消えて、いまはもう墓場《はかば》のような静けさ!  進《すすむ》は肩《かた》のへんまで水びたしになり、あやうく気をうしないそうになっていたが、するととつぜん、耳のそばで俊助が、大声に叫《さけ》ぶのが聞こえた。 「御子柴くん、御子柴くん、ちょっと弥生さんを抱いてくれたまえ」 「三津木さん、ど、どうかしましたか」 「さっきからずいぶんたつのに、水はちっともふえてこない。ぎゃくに引いていくような気がするんだ。ちょっと調べてみよう」  俊助は帽子のなかから懐中電灯をとり出すと、いそいであたりを見まわしたが、なんとあの恐ろしい悪魔の水は、すこしずつ引いていくではないか。 「ああ、水が引いていく。水が引いていく!」  進はあまりのうれしさに、くるったように叫んだが、それもむりではなかった。  さっき胸のへんまできていた水が、いまでは腰《こし》まで引いて、しかもなお、みるみるうちに、どんどんへっていくではないか。 「ああ、たすかった、たすかった。三津木さん、ぼくたちはたすかったんですね。弥生さん、弥生さん、たすかったよ。しっかりしたまえ」  しかし、弥生は気をうしなったまま、まだぐったりと俊助の胸にもたれている。 「まあ、いい、もうすこしこのままにしていよう。たすかることがはっきりするまではね」  しかし、たすかるらしいことは、いよいよはっきりしてきた。  いちど引きはじめた水は、しだいに速度をまして、胸から腰、腰からひざへと、小きみよいほどどんどんへっていく。そして、やがて、土間の床《ゆか》が見えはじめたかと思うと、滝《たき》のように音をたてて、水が階段《かいだん》を流れおちていった。 「ああ、もうだいじょうぶだ。そのうちにトンネルの水も引くにちがいない」  俊助のことばのとおり、水は五十センチ、一メートルとへっていって、いったん水中にかくれていた階段が、しだいに水面にあらわれてきた。 「三津木さん、ひょっとするとニコラ神父が、どこからか抜《ぬ》け出して、ぼくたちをたすけてくれたのではないでしょうか」 「そうかもしれない。とにかく、もうすこし水のひくのを待って、トンネルのなかを調べてみることにしよう」  しばらく待っているうちに、トンネルのうえのほうから見えはじめたかと思うと、またたくうちに地面から、一、二メートルのところまで減水《げんすい》した。 「よし、御子柴くん、いってみよう。階段がぬれてるから気をつけたまえ」 「はい」  進が用心ぶかく、階段をおりていくうしろから、俊助も弥生を抱《だ》いてついていく。  階段をおりると、水はもうひざのところまでしかない。しかもなお、渦《うず》をまいてどんどん引いていくのだ。  三津木俊助と進は、用心ぶかく、この水のなかを歩いていったが、とつぜん、さきに立った進がギョッとしたように立ちどまった。 「あっ、三津木さん、だれかやってくる!」 「なに、だれか来る?……」  俊助もギョッとしたように立ちどまると、あわてて懐中《かいちゆう》電灯を消したが、なるほど、暗闇《くらやみ》のなかから聞こえてくるのは、バチャバチャと水のはねる音。しかも、その水音はしだいにこちらへ近づいてくる。 「だれか!」  俊助がたまりかねて声をかけると、水の音はぴったりやんで、あいてもこちらのようすをうかがっているらしい。 「だれだ、そこにいるのは……?」  俊助がもういちど声をかけると、 「おお、そういう声は三津木くんではないか」  意外にもあいては、俊助の名をよんだ。 「そうだ。ぼくはいかにも三津木俊助だが、そういうきみは……?」 「ぼくだよ。ほら、きみをたすけにきたのだ」  そういいながらパチャパチャと、水を鳴らして走ってきたのは、なんと等々力警部《とどろきけいぶ》ではないか。 「あっ、警部さん、どうしてここへ……」 「その話はあとでしよう、とにかくここから出よう。おお、探偵小僧《たんていこぞう》や弥生さんもいっしょだな。さあ、こっちへきたまえ」  等々力警部はいまきたほうへひきかえした。俊助と進がそのあとからついていくと、トンネルのいきどまりに、鉄ばしごが垂直《すいちよく》についていた。 「さあ、このはしごをのぼるのだ」  鉄ばしごのてっぺんには、まるい穴《あな》があいていた。その穴から外へはい出して、あたりを見まわした三津木俊助と進は、おもわず目をまるくした。  なんとそこはセント・ニコラス教会の裏庭《うらにわ》にある、大きな池のなかではないか。    時計塔《とけいとう》の怪《かい》  セント・ニコラス教会の裏庭には、コンクリートでかためた、まるい大きな池があり、池の中央には、女神の像《ぞう》が立っているが、三人がはい出したのは、その女神の像の足もとにある、まるい穴だった。  あたりを見ると、日はもうとっぷり暮《く》れて、空には星がきらきらかがやいている。 「ああ、それじゃさっきの水は、この池から流れこんだのか」  なるほど、大きな池はすっかり水がひあがって、からっぽになっているのだ。 「そうなんだ。ぼくは弥生《やよい》さんをたずねていったんだが、きみたちがここへ来ているというので、あとを追っかけてきたんだ。ところがきみたちのすがたはどこにも見えないで、この水がどんどんへっている」  そこで警部《けいぶ》がふしぎに思って、池をのぞいているところへ、だしぬけに女神の足もとから、とび出してきたのが黒い影《かげ》。 「だれだ!」  警部はおどろいてとがめたが、そのとたんあいてはすばやくおどりかかって、ガアンと一発、警部のあごにくらわせた。  ふいをくらってはたまらない。警部《けいぶ》があっとよろめくすきに、あいては身をひるがえして、闇《やみ》のなかに消えてしまった。  警部もあとを追おうとしたが、それよりも気になるのは俊助《しゆんすけ》たちのこと。ひょっとするとこの穴のなかにとらえられて、水攻《みずぜ》めになっているのではあるまいか……。  そこで、警部はなんとかして、水を抜《ぬ》く方法はないものかと、女神の像を調べているうちに気がついたのは両腕《りよううで》が動くことである。  そこで警部はまず右腕を動かしてみたが、すると水はいよいよはげしく、穴のなかへ落ちていく。警部はあわてて右手をとめると、こんどは左手を動かしたが、すると穴のなかにたまっている水が、しだいに引いていったのである。 「そこでぼくは、なかへはいっていったんだが、すると、はたしてきみたちがいたというわけだ」 「ありがとうございました。おかげでぼくたちたすかりました。しかし、警部さん、この穴からとび出したのはどんなやつでしたか」 「さあ、それがね。なにしろこのとおりの暗がりだろう。それにとっさのことだったし……。しかし、そいつもきみたちと同じように、全身ずぶぬれになっていたようだよ」  等々力《とどろき》警部の話をきいて、俊助はふしぎそうに進《すすむ》と顔を見合わせたが、それにしてもいったいこれは、だれだったのだろう。    それはさておき、こちらは向島《むこうじま》、隅田川《すみだがわ》のほとりにふしぎな家が建っている。  それは二階建ての洋館だったが、その洋館の屋上には、直径五メートルもあろうという、大きな時計《とけい》をはめこんだ時計塔《とけいとう》が立っているのだった。  しかも、この時計はたいへんおもしろいしかけになっていて、一時間ごとに、文字盤《もじばん》のうえにある観音《かんのん》びらきの扉《とびら》が、さっと左右にひらく。なかからお姫《ひめ》さまのようなすがたをした、西洋人形があらわれて、時間のかずだけ鐘《かね》をたたくのである。 「ずいぶんかわった時計だが、あれはよほどうまく、できているにちがいないぜ。いままでいちども狂《くる》ったことがないからね」  近所の人は感心していたが、その時計が今夜にかぎって狂っていた。  時間はもうかれこれ十時だというのに、だしぬけに時計の針《はり》がギリギリと、動き出したかと思うと、八時をしめしたのだ。そして、例によって西洋人形が、カンカンと八つ鐘をうつのである。  ところが、その鐘の音もおわらぬうちに、時計の針はまたもやギリギリと動き出し、四時と一時をしめした。 「おやおや、これはどうしたんだろう。だれかがいたずらしているのかしら」  隅田川をいく船頭が、びっくりしたように時計塔を見ていると、だれやら西洋人形のうしろから、のそのそとはい出してきたではないか。船頭はびっくりしたようにそのすがたを見ていたが、とつぜん、 「わっ、金コウモリだ!」  と、叫《さけ》んで、まっさおになった。    ちょうどそのころ、隅田川の下流から一そうのランチがのぼってきた。乗っているのはいうまでもなく、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》に等々力警部《とどろきけいぶ》、それから探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴《みこしば》少年である。  三人はひとまず弥生《やよい》を、もよりの交番へあずけて、取るものも取りあえず、弥生荘《やよいそう》をたずねてやってきたのだった。 「あ、警部さん、あそこに時計塔《とけいとう》が見えます。あれが弥生荘にちがいない!」 「よし、大いそぎだ。操縦士《そうじゆうし》さん、たのむぞ」  ランチは速力をはやめて、しだいに弥生荘に近づいていく。進《すすむ》はわきめもふらず、時計塔をにらんでいたが、とつぜん、ギョッとしたように叫《さけ》んだ。 「あっ、三津木さん、あの時計塔の人形のそばに立っているのは、金コウモリの怪人《かいじん》ではありませんか」 「な、なに、金コウモリの怪人……だって」  俊助と等々力警部がおどろいて、時計塔を見なおすと、なるほど、あの西洋のお姫様《ひめさま》人形のそばに立っているのは、まぎれもなく金コウモリの怪人である。 「ちくしょう。それではさっき地下道で、弥生さんが話をするのを、どこかにかくれて、聞いていたのにちがいない」  一同がひとみをこらして見ていると、金コウモリの怪人は、ジリジリと西洋人形のそばへはいよりやがて、そのふところをさぐりはじめた。 「あっ、それじゃあの人形のふところに、真珠塔《しんじゆとう》の秘密《ひみつ》がかくされているのにちがいない。ちくしょう、それをとられてたまるもんか」  俊助はデッキのうえで、じだんだふんでくやしがったが、ちょうどそのとき、ランチは弥生荘《やよいそう》のしたにたどりついた。  俊助はそれを待ちかねて、ひらりと岸へとびあがると、 「警部さん、あなたはそこから金コウモリの怪人を見はっていてください。ぼくはあいつをつかまえてきます」  と、大いそぎで塀《へい》をのりこえ、時計塔のしたまでかけよると、うまいぐあいに、そこにはいちめんにツタがしげって、そのつるが網《あみ》の目《め》のように、時計塔にからみついているのである。  俊助はぐいぐいそのつるをひっぱって、強さをためしていたが、だいじょうぶと見ると、それに手をかけ、するするとサルのようにのぼっていった。  これを見ておどろいたのは、塔上《とうじよう》の金コウモリである。  大あわてにあわてて、人形のふところをさぐっていたが、やがて、 「あった、あった!」  と叫《さけ》びながら取り出したのは、高さ五センチばかりの黄金の女神|像《ぞう》。 「ああ、この黄金像のなかに、真珠塔の秘密がかくされているのにちがいない」  と、大よろこびでそれをポケットにねじこむと、いそいでもとの観音《かんのん》びらきの扉《とびら》のおくへ、かけこもうとしたが、そのとき、どうしたはずみか、足をすべらせたからたまらない。  せまい金属板《きんぞくばん》のうえで、ばったり倒《たお》れたかと思うと、つぎのしゅんかん、もんどりうって川のなかへ……。 「あっ!」  ランチから見ていた等々力警部と進は、てっきり落ちたと思った。  ところが、そのしゅんかん、むちゅうでのばした金コウモリの片腕《かたうで》が、一時をさしている時計の短針《たんしん》につかまったのだ。 「あっ!」  等々力警部と進は二度びっくり、いまや金コウモリの怪人《かいじん》は、直径五メートルもあろうという、大|時計《どけい》の文字盤《もじばん》のうえに、クモのようにぶらさがったのである。  金コウモリの怪人も、あっときもをひやした。  あやうく川のなかへ落ちることはまぬかれたものの、ただ一本の時計の針《はり》にぶらさがって、ちゅうぶらりんの大曲芸、手に汗《あせ》をにぎる見せものとは、まさにこのことだろう。  しかも、時計塔《とけいとう》のしたからは、俊助がツタをつたって、しだいにのぼってくるのだ。  金コウモリの怪人は、必死となってもういちど時計の上へはいあがろうとする。しかし、なにしろ、鏡のようにすべすべとした文字盤のこと、どこにも足がかりになるようなものはない。ただバタバタと両足をもがくばかり。しかも、あまりもがくと、やっと身をささえている時計の針がメリメリと、いまにももげ取れそうな音を立てるのである。  ああ、その針がもげ落ちたら、金コウモリの怪人も、もんどりうって、時計塔から落ちてしまわなければならない。  さすがの金コウモリの怪人も、いまやぜったいぜつめい。あの気味の悪いどくろ仮面《かめん》のしたから、滝《たき》のような汗がながれた。時計の針をにぎった両手が、ぬるぬると汗ですべって、ともすればずり落ちそうになる。  しかも、したを見ると俊助が、いまや塔をのぼって、時計の文字盤にとりついた。  時計の針は、いま一時二十五分をしめしている。俊助は二十五分をさしている、長針《ちようしん》のさきにとりついた。  金コウモリの怪人は、それに気がつくと、必死となってもがいている。両手でしっかり針をにぎりエビのようにからだをおりまげて、足をうえへもっていくのである。  三十センチ、二十センチ、十センチ、……もうあとすこしで靴《くつ》のさきが、針の根もとにとどきそうになった。だが、そのとたん、すべすべとした文字盤のうえで、つるりと靴がすべったからたまらない。金コウモリの怪人は、ふたたび、ぶらんとぶらさがった。  いっぽう三津木俊助は長針のうえに馬乗りになると、しだいに針の根もとのほうへ進んでいく。  それを見て、手に汗にぎったのはランチのうえの等々力|警部《けいぶ》と進だ。川のうえにはいっぱい舟《ふね》がむらがって、このすばらしい大曲芸を見ている。 「三津木くん、よしたまえ。そいつはほうっておいても、いまにしたへ落ちてくる。あぶないから、それ以上ちかよるのはよしたまえ」  等々力警部が声をからして叫《さけ》んだ。俊助もそれを聞くと、長針のとちゅうで進むのをやめた。 「おい、金コウモリ、いま、人形のふところから取り出したものをこちらへわたせ。そうすれば、おまえのいのちはたすけてやる」  さすがの金コウモリの怪人も、いまやぜったいぜつめいである。腕《うで》はしだいにしびれてくる。  このすべすべとした文字盤から、はいあがる方法はない。さすがの怪人《かいじん》もあきらめたのか、ポケットから黄金の女神|像《ぞう》をとりだした。 「よし、それをこちらへわたせ」  金コウモリの怪人は無言のまま、俊助のほうへ黄金の女神像をさしだしたが、そのときである。  さっきから、心配そうに川のあちこちをながめていた進が、アッと叫《さけ》んで、等々力警部の腕《うで》をつかんだ。 「御子柴くん、どうした、どうした」 「警部《けいぶ》さん、あ、あれ!」  と、進のことばもおわらぬうちに、ダ、ダ、ダ、ダ、ダと、すさまじいエンジンの音をひびかせて、上手《かみて》からくだってきた一そうのモーターボート。  全速力で時計塔《とけいとう》のしたを走りすぎると見たしゅんかん、ボートのなかから、すっくと頭をもちあげたのは、なんと、これまた金コウモリの怪人ではないか。 「あっ!」  等々力警部がおもわずいきをのんだとき、ボートのなかの金コウモリの怪人が取り出したのは、一ちょうの拳銃《けんじゆう》。時計塔めがけて、きっとねらいをさだめたから、おどろいたのは等々力警部と進である。 「あぶない! 三津木くん、気をつけろ!」  等々力警部が叫んだときは、おそかったのだ。時計塔めがけてズドンと一発。そのままモーターボートは、流星のように、下流の闇《やみ》へすべっていった。 「しまった!」  と、叫んだ等々力警部が時計塔のほうへ目をやると、 「あーあっ」  と、夜空をつらぬく悲鳴をあげて、金コウモリの怪人が、まっさかさまに川のなかへ落ちてきたが、そのとき手にしていた黄金の女神像が、闇のなかへカーブをえがいて、遠くのほうへとんだのを、だれひとりとして気がついたものはなかったのである。    追《つい》 跡《せき》  それにしても、なんというみごとな腕《うで》まえだろう。全速力でかけぬけるモーターボートのなかから、ズドンと一発、金コウモリのはなった一|弾《だん》は、みごと時計塔の金コウモリに命中したのだ。 「あーあっ!」  と、悲鳴をのこして水に落ちこむ金コウモリのすがたを見て、等々力警部《とどろきけいぶ》も進《すすむ》も、しばらくはぼうぜんとしていた。  時計塔のも金コウモリ、モーターボートにも金コウモリ。いまうたれて、川のなかへ落ちたのが、ほんものの金コウモリか、それとも時計塔の金コウモリをうちおとして、全速力で逃《に》げ出した、モーターボートの金コウモリがほんものか……。  あまりのことに等々力警部が、ぼうぜんとしているところへ、時計塔から俊助《しゆんすけ》の声が聞こえてきた。 「警部《けいぶ》さん、なにをぐずぐずしているんです。はやくさっきのモーターボートを追っかけてください」  その声に、ハッとわれにかえった等々力警部。 「おお、それじゃ、三津木《みつぎ》くん、あとのことはたのんだぞ。それ、操縦士《そうじゆうし》、さっきのモーターボートを追っかけるんだ」  命令いっ下、ランチはすさまじいうなりを立てて下流へむかってばくしんしていく。  夜はもうすっかりふけて、川のうえはまっ暗である。そのなかを、等々力警部と進をのせたランチが、サーチライトを照らしながら、くるったように走っていく。両岸の家々の灯《あかり》が流星のようにうしろにとんで、ランチのへさきのあげるしぶきが、滝《たき》のように左右に散る。  やがて、千メートルもくだったところで、とつぜん、進がけたたましい叫《さけ》び声をあげた。 「あっ、警部さん、あそこへモーターボートが走っていきます」  なるほど、見ればサーチライトに照らしだされた川のうえに、一そうのモーターボートが矢のように走っていくのだ。しかもハンドルをにぎっているうしろすがたは、まぎれもなく金コウモリの怪人《かいじん》である。 「しめた!」  と、等々力警部はきっと前方をにらみながら、 「おい、操縦士、もっとスピードが出ないのか」 「警部さん、それはむりですよ。これ以上スピードを出したら、エンジンが爆発《ばくはつ》してしまいます」 「爆発してもかまわん。もっとスピードを出してみろ!」 「そ、そんなむちゃな!」  ランチとモーターボートでは、それだけスピードがちがう。いったん、サーチライトの光でつかまえたものの、ともすれば、モーターボートは闇《やみ》のなかへすべり出ようとするのである。  等々力警部はじだんだふんでくやしがったが、ちょうどそのとき、警部にとって、たいへんつごうのよいことが起こった。  下流のほうからのぼってきた砂利舟《じやりぶね》が、モーターボートのゆくてをさえぎったのだ。しかも、その砂利舟は一そうではなく、五、六そう綱《つな》でつながれていて、右に左にと稲妻《いなずま》がたに、ゆっくり川をのぼってくるのだから、いやでもモーターボートは、スピードをおとさなければならない。  それを見てよろこんだのは等々力警部。 「しめた! うまいぐあいにじゃまものがあらわれたぞ。いまのうちだ。操縦士、たのんだぞ」  ランチはしだいにモーターボートに接近《せつきん》していく。やがて、そのあいだ数十メートル。  と、このときだった。モーターボートのうえでくるりとこちらをふりかえった金コウモリが、きっと銃《じゆう》をかまえたかと思うと、ズドンと一発。 「あっ、あぶない、警部《けいぶ》さん!」  進と等々力警部が、ハッとデッキに身をふせたとき、弾丸《たま》は等々力警部の耳もとをかすめて水のなかへ落ちた。 「わっ、これはいけない。警部さん、これじゃうっかりそばへ近よれませんぜ」  操縦士《そうじゆうし》はおじけづいたか、ぴたりとランチをとめてしまった。 「おい、とめちゃいかん。前進しろ!」 「だって、警部さん、そばへよったらズドンですもの。くわばら、くわばら!」  警部がどんなにおどしてもすかしても、操縦士は前進しようとはしないのだ。それもむりはない。むこうを見れば金コウモリの怪人《かいじん》が、モーターボートのなかにすっくと立って、よらばうたんという身がまえである。 「ちくしょう、ちくしょう!」  等々力警部はじだんだふんでくやしがったが、そのとき、やっと砂利舟《じやりぶね》が、モーターボートのそばをすりぬけた。それと見るや金コウモリの怪人は、また矢のように走っていく。  等々力警部をのせたランチも、よたよたとそのあとを追っていった。  こうして二そうの舟が、隅田川《すみだがわ》のさいごの橋をくぐりぬけて、佃島《つくだじま》のへんまできたときだった。またしても、警部にとってつごうのよいことが起こった。  モーターボートの行く手から、ふいにサーチライトの光がひらめいたかと思うと、一そうのランチがとび出してきたのだ。 「あっ、水上署《すいじようしよ》のランチだ」 「警部さん、きっと三津木さんが電話をかけてくれたんですよ」 「うん、そうかもしれん。こうなったらはさみうちだ」  水上署のランチは、わざと稲妻《いなずま》がたにうねりながら、しだいにこっちへ近づいてくる。モーターボートをのがさぬ用心だ。うしろからは等々力警部をのせたランチが、これまた稲妻がたに川をぬって近づいていく。  いまやモーターボートはふくろのねずみもおなじ、さすがの金コウモリもかんねんしたのか、だんだんスピードを落とした。 「しめた! こうなったらこっちのものだ」  等々力警部は小おどりせんばかりによろこんだ。  やがて、水上署のランチが照らすサーチライトに、くっきり浮《う》かびあがったところを見ると、金コウモリの怪人は、すでにかくごをきめたのか、ハンドルのうえに背中《せなか》をまるくして、かがみこんでいる。  やがて、そのそばへぴったりと水上署のランチがとまると、警官《けいかん》がモーターボートにとびうつった。 「あっ! あぶない、気をつけろ。そいつは飛び道具を持っているぞ!」  警部《けいぶ》は大声で叫《さけ》んだが川風のために聞こえなかったのか、警官《けいかん》は金コウモリの肩《かた》に手をかけぐいとそれを抱《だ》き起こしたが、そのとたん、 「あ、こ、これは……」  と、叫ぶと、金コウモリのからだをさしあげ、かるがるとふりまわしたから、おどろいたのは等々力警部である。 「ど、どうしたんだ?」  と、叫びながら水を切って近よると、 「警部さん、やられました。まんまといっぱい金コウモリにくわされました」  と、そういいながら、どさりとこちらへ投げてよこしたのを見て、等々力警部も進もおもわずあっと目をまるくせずにはいられなかった。  なんと、それは金コウモリのすがたこそしているものの、綿《わた》でつくった人形ではないか。 「しまった! それじゃさっき砂利舟《じやりぶね》が、あいだへわりこんできたすきに、金コウモリのやつ、川のなかへとびこんだんだ」  と、いまさら気がついてもあとのまつり。警部はじだんだふんでくやしがっていたが、そこへ上手《かみて》のほうから、モーターボートを走らせて、かけつけてきたのは俊助である。 「警部さん、金コウモリの怪人《かいじん》は……」 「ああ、三津木くん、残念ながら取りにがした。ときに、あっちのほうの金コウモリは……?」 「警部さん、ごらんください。みごとに心臓《しんぞう》をつらぬかれているのです」 「そ、そして、そいつはいったいだれだ」 「柚木《ゆのき》博士《はかせ》ですよ。しかし、警部さん、これはほんものの、金コウモリじゃないのです。金コウモリに化けて、真珠塔《しんじゆとう》を横どりしようとしていたんです。金コウモリの怪人はほかにおります。いま柚木博士を殺して逃《に》げたやつがそうなんです」  三津木俊助はそういいながら、残念そうに暗い川のうえを見まわした。    怪《あや》しい三人  柚木博士は殺された。しかし、その柚木博士はほんものの金コウモリではなかったのである。金コウモリの仮面《かめん》にかくれて、真珠塔の秘密《ひみつ》を、横どりしようとしていたのだ。  それでは、ほんものの金コウモリとはいったい何者だろうか。そしてまた、追跡《ついせき》する等々力警部《とどろきけいぶ》の目をくらまし、川へとびこんでから、いったいどこへ逃げたのだろうか。  しかし、それらの話はしばらくおあずかりしておいて、ここでは隅田川《すみだがわ》で、あの大追跡があった翌日《よくじつ》の夜のできごとから、お話をすすめていくことにしよう。  等々力警部や俊助《しゆんすけ》が、金コウモリをとりにがして、じだんだふんでくやしがった、つぎの晩《ばん》のま夜中ごろのこと、川向こうの本所《ほんじよ》のほうから漕《こ》ぎだした一そうの小舟《こぶね》があった。  乗っているのは三人だが、いずれもあまり人相のよくない男たちである。  三人はあたりのようすをうかがいながら、しだいに川の中央へ、舟を漕ぎだしていくのだ。 「そうそう、山本《やまもと》」  やがて、舟が川の中央まできたときだった。舟のなかにすわっている、片目《かため》のつぶれた大男が、前にいる斜視《しやし》の男に話しかけた。 「なんですか。親方」  と、山本が答えたところをみると、この大男が、三人のなかでも、かしらぶんとみえる。顔じゅうひげだらけの、いかにも人相のわるい男である。 「ゆうべは、おもしろかったじゃないか。ほら、モーターボートとランチの追っかけっこよ。まるで映画《えいが》をみているようだったな」  親方がそういうと、 「そうそう親方」  と、そばから口をだしたのは、舟を漕いでいる男だった。その男は、左|腕《うで》が根もとからないのだが、それでいて、右手でじょうずに舟を漕ぐのである。 「なんだい、川口《かわぐち》」 「きょうの新聞でみると、あのとき、モーターボートで逃《に》げていたのは、ほんものの金コウモリだというじゃありませんか」 「そうよ、その金コウモリのやつが、砂利舟《じやりぶね》のかげにかくれて、こっそりモーターボートから、川へとびこんだのも知らず、警部《けいぶ》のやつ、あくまでモーターボートを追っかけていきやがった。ばかなやつらってありゃしない。あっはっは」  親方が笑っているところをみると、かれはどうやら金コウモリが、川へとびこむところを見ていたらしい。 「それにしてもおどろきましたね」  と、そういったのは山本だ。 「なにが……」 「なにがって、金コウモリのやつがわれわれの舟のはなさきへ、ぽっかり浮《う》かびあがってきたときです。水のなかでどくろ仮面《かめん》を落としたと見え、顔がまる見えだったじゃありませんか」 「あっはっは、あのときは金コウモリのやつもおどろきやがったな。思いがけないところにわれわれがいたもんだから、あわてて水へもぐりこみやがった。あっはっは」  親方は、腹《はら》をゆすって笑っている。しかし、山本は心配そうに、 「でもねえ、親方、わたしは心配でたまりません」 「なにが……」 「なにがって、われわれは金コウモリの顔を見たでしょう。あいつがどこのどういうやつだか、そこまでわれわれも知りません。しかし、だいたい、どういうやつだかということは見当がついたでしょう。だから……」 「だから……どうしたというんだ」 「だから、金コウモリのやつがわれわれにたいして、なにか悪いことをしやしないかと、それが心配でならないのです」 「あっはっは」  親方はまた腹《はら》をゆすって笑うと、 「山本、あいかわらずおまえは気が小さいな。金コウモリだって、われわれをどこのだれと知るもんか。くよくよするな。それより川口、はやく舟《ふね》をやれ」 「はい」  川口は力をこめて舟を漕《こ》ぎつづける。  ああ、それにしてもいまの話を聞けば、この三人は金コウモリの顔を見たのだ。そして、だいたい、どういう人物だかということを知っているらしい。  それだのに、どうしてそれを警察《けいさつ》へしらせないのだろう。怪《あや》しいのは、この三人である。    さて、それからまもなく三人が、舟を漕いでやってきたのは、なんと弥生荘《やよいそう》のすぐ前だった。  そこまでくると親方は舟をとめさせ、 「さあ、ここだ。ゆうべおれはちゃんと見ておいたのだ。にせものの金コウモリが、ほんものの金コウモリにうたれて、あの時計塔《とけいとう》から落ちるとき、なにやら手に持っていたものが、宙《ちゆう》をとんで川のなかへ落ちたんだ。だれもそれに気がついたものはなかったが、おれはこの目で見ておいたんだ」 「そして親方、それはいったいなんなんです」 「それはおれにもわからない。しかし、ああして、みんながいのちがけでねらっているところをみると、きっとだいじなものにちがいない。ちょっと見たところでは、金色をした仏様《ほとけさま》みたいなものだった。なんでもいいから、山本《やまもと》、そろそろしたくをしろ」 「はい」  と、答えたものの、山本は、なんだか心配そうにあたりを見まわし、 「親方、だいじょうぶでしょうねえ。だれも見ていないでしょうねえ」 「だいじょうぶだ。だれがいまごろ起きているものか。見ろ、あの時計を。……もうかれこれ二時じゃないか」  見ればなるほど、時計台の時計は二時ちょっとまえをしめしている。両岸の家はもうみんな寝《ね》しずまって、まっ暗な隅田川《すみだがわ》には、いきかう舟もない。 「親方、それじゃしたくをしますから、手つだってください」 「よし、川口《かわぐち》、なるべくひとめにつかぬところへ、舟を漕いでいけ」  親方と山本は、舟《ふね》のなかから立ちあがると、取りだしたのは、なんと潜水服《せんすいふく》ではないか。  わかった、わかった。  かれらは水にもぐって、川の底に沈《しず》んでいるあの黄金の女神|像《ぞう》を手にいれようとしているのだ。したくは、すぐにできた。  山本は、潜水服に身をかため、潜水帽《せんすいぼう》をすっぽりかぶると、 「それじゃ、親方、川口くん、ポンプを押《お》すのをわすれちゃいやだぜ。空気を送ってくれなきゃ、息がつまって死んでしまうからね」 「だいじょうぶだ。心配するな」 「それじゃ、おねがいします。金色の仏様《ほとけさま》が手にはいったら綱《つな》を引きますから、そのときにはすぐひきあげてください」  潜水服の山本は、ふなべりを乗りこえると、そろそろ水のなかへもぐっていった。  舟のうえでは親方と川口が、ギッコギッコとポンプを漕《こ》いで、水中の山本に空気を送りだした。  最近のアクアラングだと、せなかに酸素《さんそ》のボンベがついているから、うえから空気を送る必要はないのだが、かれらの持っている潜水服は、ひと昔まえの旧式《きゆうしき》なやつなのである。  さて、山本は、まもなく川の底についた。  手にした水中カンテラであたりを見ると、川の底はまるでくず鉄屋の店さきのようだった。さまざまな、古いこわれた金物類がころがっているなかに、さびついた、モーターボートが一そう沈《しず》んでいる。  山本は、それらのがらくた類を、ひとつひとつ起こしてみて、目的のものをさがしだした。  かれらはこうして、川や海に沈んでいる金めのものを拾いあげては、それを売るのを商売にしているのである。  山本はしばらく川の底をさがしていたが、やがて潜水帽のおくから、キラリと目を光らせた。  ああ、こわれたモーターボートのそばにころがっているのは、まぎれもなく金色の女神像ではないか。  山本はいそいでそれを取りあげたが、そのとたん、ギクリとからだをふるわせて、その場に立ちすくんでしまったのである。  なんとそのとき、モーターボートのむこうから、むくむくと、起きあがってきたものがあるではないか。  それはやっぱり、潜水服と潜水帽に身をかためた怪人物《かいじんぶつ》だった。  しかも、あいての着ている潜水服は、山本のような旧式なものではなく、酸素ボンベを背《せ》おったアクアラングで、ゴムのヘルメットのうえには、目をいるような照明灯さえついている。その照明灯に目をくらまされて、山本はしばらく、あたりが見えなかったくらいである。  潜水服《せんすいふく》の山本と、アクアラングの怪人《かいじん》は、モーターボートをなかにはさんで、しばらくにらみあいをつづけていたが、 やがて怪人は、 右手を出して、 ふらふらこちらへ近づいてきた。 わか った、わかった。アクアラングの怪人も、やっぱり黄金の女神|像《ぞう》をさがしているにちがいない。  これをやってたまるもんかと、潜水服の山本は、あわててうしろへとびのいた。アクアラングの怪人は、いよいよ右手を前につき出し、フワリフワリと近づいてくる。  ふたりはまた、しばらくにらみあいをつづけていたが、そのうちに、山本はみょうなことに気がついた。  ゴムのマスクのおくからのぞいているその顔は、なんと女ではないか。しかも、その女の目は、夢《ゆめ》でも見ているように、とろんとにごっているのだ。  山本はきゅうに、なんともいえぬほど、気味が悪くなった。  そこで、いそいで綱《つな》を引っぱったが、そのとたん、潜水服の女は、フワリとからだを浮《う》かせると、からみつくように、山本の腕《うで》にすがりついたのである。 「あっ、なにをする。はなせ、はなせ。はなさぬとそのままじゃおかないぞ」  山本はやっきになって叫《さけ》んだ。  しかし、おたがいに潜水帽《せんすいぼう》やマスクをかぶっているのだから、そんなことばが、あいての耳にはいろうはずはない。  女はまるでツル草のように、山本のからだにからみつくと、手にした黄金の女神像を、取りあげようとする。 「ちくしょう、ちくしょう。女のくせになまいきな。はなさぬとただじゃおかないぞ」  ふたりはしばらく、組んずほぐれつ、川の底でもみあっていたが、そのうちに山本はみょうなことに気がついた。  あいての女には左手がないのだ。アクアラングにはむろん、腕も手もついているのだが、その左手をつかんだところが、手首からさきが、フニャフニャとして、いっこう手ごたえがないのである。  左の手首のない女……。しかも、あの気味の悪い目つき……。  山本はきゅうに、なんともいえぬ恐《おそ》ろしさをかんじた。 「わっ、こいつ、化けものだ!」  叫ぶとともに、潜水服のポケットから取り出したのは、大きなジャックナイフである。  山本はもうはんぶん正気を失った。むちゅうになってズタズタと、そのナイフで、あいてのゴムの服をつきさしたが、すると、どうやら女は山本からはなれた。  山本はいそいで綱を引いたが、ちょうどそのとき、舟《ふね》のうえでもみょうなことが起こっていた。 「あっ、親方、山本が綱を引いてますぜ」  川口にいわれて、 「おお、なるほど、それじゃ、川口、おまえひとりでポンプを漕《こ》いでいてくれ。おれは山本を引きあげてやる」 「へえ」  川口は一生けんめい、ポンプを漕いでいたが、なに思ったか、とつぜん、 「わっ!」  と、叫《さけ》んでポンプから、手をはなしたから、おどろいたのは親方である。 「川口、ど、どうした。ポンプを漕がぬと、山本が死んでしまうぞ」 「だって、だって、親方、あれ……」  川口がふるえる指でゆびさすほうを見て、親方もおもわずギョッと息をのんだ。  ああ、なんということだろう。  五、六メートルはなれた水のうえを、金コウモリが十ぴきあまり、ヒラヒラ、バタバタ、飛んでいるではないか。 「わ、き、き、金コウモリだ!」  親方もあまりの恐《おそ》ろしさに、舟底《ふなぞこ》にしがみついて、しばらくぶるぶるふるえていたが、やがて、やっと気を取りなおし、いそいで綱《つな》をたぐりあげたときには、山本はもうすでに、息がつまって死んでいたのだった。  右手に女神の像《ぞう》をにぎったままで……。    あわれ晶子《あきこ》 「三津木《みつぎ》くん、たいへんなことがおきた」  その翌日《よくじつ》、新日報社《しんにつぽうしや》の編集局《へんしゆうきよく》へ、顔色かえてやってきたのは等々力警部《とどろきけいぶ》である。 「あっ、警部さん、ど、どうかしましたか」 「黒《くろ》河内晶子《こうちあきこ》が見つかったんだ」 「えっ、黒河内晶子が……? いったい、どこにいたんです」 「ふむ、それについてこれからでかけるところだが、きみもいっしょに来ないか」 「いきましょう」  俊助《しゆんすけ》はすぐに帽子《ぼうし》をとりあげた。警部は編集局のなかを見まわし、 「ときに、探偵小僧《たんていこぞう》は……?」 「あれは、弥生《やよい》さんにつきそわせています。金コウモリのやつが手をだすといけないから……」 「ああ、そうか。それじゃふたりでいこう」  表へでると、警視庁《けいしちよう》の自動車が待っていた。ふたりがそれにとびのると、自動車はすぐに出発した。 「警部《けいぶ》さん、それにしても、黒河内晶子はどこにいるんです」 「いや、いまにわかる」  警部はむずかしい顔をして、それきりだまりこんでしまった。  きみたちも黒河内晶子のことをおぼえているだろう。  金コウモリの怪人《かいじん》に催眠術《さいみんじゆつ》をかけられて、しらずしらずのうちにその手先になっていた映画《えいが》スターの黒河内晶子。  柚木真珠王《ゆのきしんじゆおう》のパーティーの晩《ばん》に、金コウモリになってしのびこみ、金庫のしかけに手首をはさまれ、それを切り落として逃《に》げた黒河内晶子。  そして、新日報社《しんにつぽうしや》の編集局《へんしゆうきよく》から、金コウモリのために連れさられた、あのかわいそうな黒河内晶子……。  その晶子のいどころがわかったというのだ。  やがて、自動車は隅田川《すみだがわ》の川口の岸についた。見ると、そこには一そうの小舟《こぶね》が待っている。等々力警部と俊助は、すぐにその小舟に乗りこんだ。 「警部さん、黒河内晶子はいったいどこにいるんです。川のなかにいるんですか」 「まあ、なんでもいいから、だまってついて来たまえ」  隅田川の川口には、ところどころ、ヨシのはえた浮州《うきす》がある。それらの浮州は潮《しお》がみちてくると、水のしたへかくれるが、潮がひくと、水中からでてくるのである。  見ると、そういう浮州のひとつに、五、六人の警官《けいかん》が立って、なにやら地面を見ていた。警部と俊助をのせた小舟は、その浮州のそばへ横づけになった。  すばやく舟からあがった等々力警部は、警官たちを押《お》しのけると、ヨシのあいだを指さしたが、そのとたん、さすがの三津木俊助も、おもわずギョッと息をのんだのである。  ああ、そこに倒《たお》れているのは、まぎれもなく、黒河内晶子ではないか。しかし、それにしても、なんという変わったすがただろう。  黒河内晶子はアクアラングを身につけたまま死んでいるのである。ゴムのマスクはとってあったが、見るとその服はズタズタに切りさかれ、背《せ》におうた、酸素《さんそ》ボンベにも、大きな穴《あな》があいているのだ。 「けさ、漁師がこの死体を発見したんだよ。しかし、三津木くん、きみはこれをどう思う?」 「どう思うって?」 「いや、晶子はね、金コウモリの命令で川の底へもぐらされたんだよ。たぶん、黄金の女神|像《ぞう》をとりにいったにちがいない。ところが、どういうはずみか、酸素ボンベがやぶれたので、息がつまって死んだあげく、ここへ流れよったんだ。かわいそうな晶子。そして、憎《にく》むべき金コウモリ!」  等々力警部は、きっとこぶしを握《にぎ》りしめたが、ちょうどそのとき、弥生の身にも、恐《おそ》ろしい災難《さいなん》がせまっていたのである。    おとといの晩《ばん》、セント・ニコラス教会の地下道で、水攻《みずぜ》めにされて、あやうく殺されるところを、あやうくたすかった弥生《やよい》は、きのう一日、恐怖《きようふ》と疲労《ひろう》のために寝《ね》ていたが、きょうはすっかり元気を回復《かいふく》して、寝床《ねどこ》からおきだした。 「弥生さん、だいじょうぶ? もっと寝ていたほうがよくないの。まだ顔色が悪いよ」  三津木俊助《みつぎしゆんすけ》の命令で、きのうから弥生につきそっている探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴《みこしば》少年は、そういって心配そうに顔をのぞきこむ。  そこは柚木邸《ゆのきてい》のダイニング・ルームだった。弥生と御子柴|進《すすむ》は、今ひるごはんをたべているのだが、ひろい食堂にただふたり、むかいあっているところを見ると、なんだか寒けをさそうようである。  食堂のすみには、なくなった真珠王《しんじゆおう》がじまんしていた西洋のよろいが立っていたが、そのよろいの、つめたい鋼鉄《こうてつ》のいろが、がらんとした部屋《へや》の寒さを、いっそうひきたてているのだ。 「あら、もういいんですの。ご心配かけてすみませんでした。ときに三津木先生は?」 「さっき社へ電話をかけてみたんですが、警部《けいぶ》さんがむかえにきて、いっしょにどこかへ出かけたそうです」 「まあ、また、なにかあったのでしょうか」 「さあ」  進も黒《くろ》河内晶子《こうちあきこ》が殺されたことは、まだ知らないのである。 「それはそうと、進さん」 「なあに、弥生さん」 「ニコラ神父はどうなすったんでしょうね。なにかわかりましたかしら」 「ああ、神父さんのこと?」  進は、ちょっとテーブルからのりだして、 「それがふしぎなんですよ。きのう、水がすっかりひあがったところで、警察《けいさつ》の人たちがおおぜいで、あの地下道を調べたんです。ところが神父さんのすがたはどこにも見えなかったんです」 「まあ」 「神父さんがもし、水におぼれて死んだとしたら、地下道のどこかに、死体がのこっていなければならないはずです。水のはけくちは、そんなに大きな穴《あな》じゃないのだから、死体が流れてしまうはずはないのです。だから、神父さんはきっとどこかに生きているにちがいないと、三津木さんはいっているんです」 「でも、生きていらっしゃれば、どこからか、たよりがあるはずじゃありませんか」 「ええ、だからふしぎだと、三津木さんも警部さんも、首をかしげているんです」 「まあ……」  ふたりが顔を見あわせて、だまりこんでいるときだった。とつぜん、部屋《へや》のどこからか、ガチャリという音が聞こえた。 「あれ!」  弥生はとびあがって、 「進さん、進さん、いまの音、なんの音?」  進は、すばやく部屋を見まわすと、 「あっはっは。なんでもありませんよ。あのよろいが動いたんです。きっと風かなにかのせいですよ」 「まあ、そうだったの。それならいいけど」  弥生がホッと胸《むね》をなでおろしたときだった。使用人の老人が、一通の手紙を持ってはいってきた。 「お嬢《じよう》さま、いま、使いの者が、この手紙をお嬢さまにと、持ってきましたが……」 「まあ、使いの人ってどんな人?」 「片腕《かたうで》しかない人相のよくない男でした」 「そして、その人、まだいるの」 「いいえ、手紙をおいてすぐ帰っていきました」  弥生は気味悪そうに封《ふう》を切って、なかを読んでいたが、みるみるうちに顔色が変わって、 「まあ!」  と、つぶやくと、おもわずよろめいたが、そのときだった。みょうなことが起こったのである。  だしぬけに、ガラガラとすさまじい音をたてて、西洋のよろいが、床《ゆか》にたおれたのだが、なんと、そのよろいのなかにはだれやら人が……。    うそつき神父 「あれえ!」  弥生《やよい》は、かなきり声をあげてとびのいたが、そのとたん、手に持っていたあの手紙がヒラヒラと床にまい落ちたのも気がつかなかった。進《すすむ》もびっくりして、目をまるくしてよろいを見ていたが、ハッと気がつくと、よろいのそばへかけよって、ぱっと鋼鉄《こうてつ》のマスクをあげたが、そのとたん、弥生の唇《くちびる》から、おもわずおどろきの声がもれた。 「まあ、ニコラ神父さま!」  いかにもそれはニコラ神父だった。ニコラ神父は眠《ねむ》り薬でものまされているのか、こんこんと眠っているのである。 「あっ、じいやさん、すぐにお医者さんを呼《よ》んできてください。弥生さん、ぼくちょっと社へ電話をかけてきます」  使用人のおじいさんと進が出ていったあと、弥生はさも恐《おそ》ろしそうに、神父の顔を見ていたが、きゅうに心ぼそくなって食堂からかけ出した。  床《ゆか》のうえに、手紙が落ちているのも忘れて……。  医者はすぐにやってきた。ニコラ神父はやっぱりつよい眠《ねむ》り薬をのまされているのだそうで、医者が二、三本|注射《ちゆうしや》をうつと、かすかに身動きをするようになった。  弥生はホッと安心すると同時に、さっきの手紙のことを思い出し、あわててあたりを見まわすと、さいわい、まだ床のうえに落ちていたので、いそいでひろって、ポケットのなかへねじこんだ。  進は神父が、へんなところから出てきたので、おどろきのあまり、手紙のことはすっかり忘《わす》れてしまった。  神父は一時間ほどして、やっと正気にもどったが、弥生や進のすがたを見ると、 「おお!」  と、両手をあげて、 「弥生さん、弥生さん、あなた、ぶじでしたか」 「ええ、神父さま、わたしたちはぶじにたすかりましたが、神父さまはどうして、こんなよろいのなかなどにはいっていられたのです。わたしたち、どんなに神父さまのことを心配したかしれませんわ」 「よろい? わたし、よろいのなかにいたのですか。知りません。わたし、知りません」 「しかし、神父さま、あなたどうしてあの地下道からのがれたのですか。そして、ここへこられたのですか」  これは、進の質問《しつもん》である。 「ああ、それ、それはこうです」  神父の話によると、こうだった。  水に落ちたニコラ神父は、地下道のいちばんおくまで流されたが、さいわい、そのうちに水がひきはじめたので、やっといのちをたすかった。  たすかったニコラ神父は、地下道のすみからすみまでさがした。弥生や三津木俊助《みつぎしゆんすけ》、それから進のゆくえをさがしもとめたのである。  しかし、どこにも三人のすがたが見えないうえに、あの噴水《ふんすい》へ抜《ぬ》ける穴《あな》を発見したので、さてはみんなもここから抜けだしたのであろうと、じぶんもそこから抜けだすと、すぐにこの家へかけつけた。  しかし、そのときには、弥生もまだ帰っておらず、使用人の老人のすがたも見えなかったので、かってにこの食堂へはいってきて、弥生の帰るのを待っていたというのである。 「わたし、そのいすに、腰《こし》、おろしていました。すると、ふいにうしろから、だれかが抱《だ》きついてきました。そして、わたしの鼻に、しめったガーゼ、押《お》しあてました。ガーゼ、つよい薬のにおいしました。わたし、もがきました。抵抗《ていこう》しました。しかしそのうちに気がとおくなって……それからあとのことは、なにも知りません」  ニコラ神父の話をきいているうちに、進の顔色が、しだいに土色になってきた。  それでは神父はおとといの晩《ばん》から、あのよろいのなかに、押《お》しこめられていたのだろうか。いやいや、そんなはずはない。  進はゆうべの八時ごろ、なにげなくよろいのなかを見たのだが、そのときには、そこにはだれもいなかったのである。  それでは神父は、なぜ、そんなうそをつくのだろうか。  ニコラ神父はそれからまもなく、帰っていったが、その晩、進はなかなか眠《ねむ》りにつくことができなかった。  ニコラ神父はなんだって、あんなうそをつくんだろう……そう考えると、進の胸はあやしくみだれて、なかなか眠りにつくことができなかったのである。  進はあれからなんども、新日報社《しんにつぽうしや》へ電話をかけてみた。しかし、運の悪いときは、しかたがないもので、三津木俊助はまだ社に帰っていないという。警視庁《けいしちよう》へも電話をかけてみたが、等々力警部《とどろきけいぶ》のいどころもわからない。  進はなんともいえぬ不安におそわれながら、さて、どうしたらいいかわからないままに九時ごろまで弥生のあいてをしたのち、じぶんの寝室《しんしつ》へひきあげたが、なかなか眠ることができない。ベッドのなかで、寝《ね》がえりばかりうっていたが、すると十時ごろのこと、だれかがドアの外へきて、ソッとなかのようすをうかがっているけはいがする。  進はギョッとして、ベッドのなかで息をころしていたが、するとまもなく、ドアのそばをはなれた足音が、しのびやかに立ち去っていくのだ。  進はガバッとベッドからはね起きると、いそいでドアを開いて、外をのぞいたが、ああなんと、いましも廊下《ろうか》の角を曲がっていくうしろすがたは、弥生ではないか。しかも、弥生は、ちゃんと外出のしたくをしているのである。進は、ハッと、持ってきたという、手紙のことを思いだした。ニコラ神父のことに心をうばわれ、進は、いままであの手紙のことをすっかり忘《わす》れていたのである。  ひょっとすると弥生は、あの手紙におびき出されていくのではあるまいか。 「しまった?」  舌《した》うちをした進が、大いそぎで身じたくをととのえ、おもてへとびだすと、弥生はむこうの角で、通りかかったタクシーを呼《よ》びとめて、乗るところだった。進は、声をかけようとしたが、そのまえにもうタクシーは走り去ってしまった。 「しまった、しまった。弥生さんにもしものことがあっては、三津木さんに、もうしわけがない」  進が、じだんだふんでくやしがっているところへ、おりよく通りかかったのは、タクシーの空車。進はそれにとびのると、 「運転手さん、むこうにいくあの自動車を追跡《ついせき》してください」  と、むちゅうになって叫《さけ》んだ。  こうして、二台のタクシーは、糸でつないだように夜の町をはしっていたが、しだいに下町へやってくると、やがて隅田川《すみだがわ》をわたり、やってきたのは小名木川《おなぎがわ》のかたほとり。  そこまでくると、弥生のタクシーがとまったので、進もあわてて、百メートルほど手まえで、タクシーをとめた。  見ると、タクシーからおりた弥生は、あたりを見まわしながら、さびしい道をコツコツと歩いていく。進も自動車をかえして、こっそりとあとからつけていった。  そこはかたがわには、小名木川の黒い流れが流れており、かたがわには、どこかの工場の塀《へい》がながながとつづいているという、まことにさびしい場所だった。  弥生は、しきりに川のほうを気にしながら、歩いていく。川のなかには、いろんな船がとまっていたが、弥生はそのたびに立ちどまって、船のなかをのぞいている。  それでは弥生の用があるのは、船のなかなのだろうか。  やがて、弥生は橋のたもとへさしかかったが、すると、そのとき暗闇《くらやみ》から、スルスルと出てきたひとつの影《かげ》が、弥生《やよい》とふた言、三言話をしていたが、やがて肩《かた》をならべて歩きだした。  進は、怪《あや》しく胸《むね》をおどらせながら、ふたりのあとをつけていったが、なんと、弥生を待っていたのは、松葉杖《まつばづえ》をついた足の不自由な少女ではないか。    ランチの怪人《かいじん》 「お嬢《じよう》さま、あなたはここへいらっしゃることを、だれにもおっしゃりはしなかったでしょうねえ」  松葉杖の少女は心配そうに、あとさきを見まわしながらたずねている。 「いいえ、だれにも。この手紙に、だれにもいっちゃいけないと書いてあるんですもの」 「そうですか、ありがとうございました」 「あなた、この手紙を書いた川口《かわぐち》という人と、どういうご関係?」 「あたし、川口の妹ですの。鈴江《すずえ》といいます」  してみると、この少女は、昨夜、隅田川の川底から、黄金の女神|像《ぞう》をひろいあげた、三人の仲間のひとり、川口の妹なのであろう。年ごろは弥生といくつもちがわないようだった。 「おにいさまはなにをなさるかたなの?……」 「なにって、べつに……」  と、足の不自由な鈴江はためらいがちに、 「悪いことばかりしているんですわ。悪い親方がついているもんですから。わたし、あの親方とわかれてくれと、なんども兄にいうんですけれど……」 「まあ!」  弥生は、気味悪そうに肩《かた》をすぼめたが、 「でも、この手紙に書いてあることはほんとうでしょうねえ。あたしのおじの柚木《ゆのき》博士《はかせ》が時計台《とけいだい》からとり出した黄金の女神|像《ぞう》を、川の底からひろったというのは……」 「はい、それはほんとうです」 「そして、百万円出せば、その女神像をあたしにかえしてくださるのね」 「はい、そうもうしております」 「それから、もうひとつ、あの金コウモリの怪人《かいじん》が、だれだか知ってると書いてありますけれど、それもほんとうなの?」 「ええ、怪人の顔をはっきり見たといっておりました」 「それじゃ、なぜ警察《けいさつ》へとどけないの」 「それは……じぶんが悪いことばかりしているものですから、警察へいくのがこわいのです。でも、お嬢《じよう》さま、あなたにはけっして、指一本ささせるようなことはいたしません。そのかわり、百万円だけやってください。あたし、それを親方にやって、兄とわかれさせるつもりでおります」  弥生はきゅうに、このみすぼらしいすがたをした少女が、いじらしくなってきた。 「ええ、いいわ、わかったわ。あなたはいいかたね。あなたのような妹さんがついていれば、おにいさまもきっと、悪事から足を洗《あら》うことができますわ」 「ありがとうございます。お嬢さま、あ、この船《ふね》でございます」  鈴江が足をとめた川ぶちには、小さなランチがつないであった。  ランチから岸にむかって、みじかいはしごがかけてあったが、鈴江はそれをつたっておりていく。弥生も気味悪そうに、そのあとからつづいた。 「にいさん、にいさん、親方さん、お嬢さまをお連れしましたよ」  小さな船室の前に立って、鈴江が声をかけたが、なかから返事が聞こえない。 「あら、どうしたのかしら」  鈴江がふしぎそうにドアを開くと、ネコのひたいほどのせまい船室のなかには、ふたりの男がテーブルのうえにうつぶせになっていた。テーブルのうえには、酒のびんとコップがころがっている。 「まあ、よっぱらって寝《ね》てしまったのかしら。にいさん、にいさん、親方さん」  鈴江はふたりの男をゆり起こそうとしたが、そのとたん、キャッと叫《さけ》んでとびのいた。なんと親方も川口も、口から血をはいて死んでいるではないか。 「毒……そうだわ、だれかがこのお酒のなかに、毒をほうりこんだにちがいないわ。だれが……だれが……」  鈴江《すずえ》が身をふるまわせて叫《さけ》んでいるとき、だしぬけに弥生《やよい》が、キャッと叫んで鈴江にすがりついた。  にわかにランチが走り出したからである。 「だれ……? 操縦席《そうじゆうせき》にいるのは、だれ……」  鈴江が叫んだが返事はなく、ランチはいよいよスピードをまして、とうとう隅田川《すみだがわ》へ出てしまった。 「だれ……? だれなのさ、そこにいるのは」  鈴江がもういちど、ふるえ声でたずねたとき、ランチがピタリと川の中央にとまったかと思うと、船室の外からヌッと顔を出したのは、ああ、あの気味の悪いどくろ仮面《かめん》の男、金コウモリの怪人《かいじん》ではないか。  金コウモリの怪人は、気味の悪いどくろ仮面のしたから、怪《あや》しく目をひからせながらピストル片手《かたて》に船室のなかへはいってきた。弥生はなにかいおうとしたが、あまりの恐《おそ》ろしさに、舌《した》がもつれて声が出ない。鈴江はしかし、弥生よりも勇敢《ゆうかん》だった。キッと弥生をうしろにかばいながら、 「ああ、おまえなのね。おにいさんや親方に、毒をのませて殺したのは……?」  と、ののしるように叫んだが、金コウモリの怪人は、それに返事をしようともせず、ジリジリとそばへよってくる。さすがの鈴江もまっさおになり、 「おまえ、あたしたちをどうしようというの。おにいさんや親方を、殺しただけではたりないであたしたちまで殺そうというの」 「黄金の女神|像《ぞう》はどこにある?」  金コウモリの怪人は、はじめて口をひらいたが、その声を聞いたとたん、弥生はハッと、どくろ仮面を見なおした。  ひくい、ふめいりょうな声だったが、弥生はどこか、聞きおぼえがあるような気がしたのである。 「黄金の女神像……? いいえ、あたしは知りません。あたし、そんなもの知りません」  鈴江は必死となって叫んだが、しかし、そのことばにどこかあいまいなひびきがあるのは、知っているしょうこである。金コウモリの怪人もそれに気がついたのか、仮面のおくでニヤリと笑いながら、 「おまえが知らぬはずはない。いえ、黄金の女神像はどこにある。いわぬと……?」 「いわぬと、どうするというの?」 「このピストルが目にはいらないのか」  そういいながら金コウモリの怪人は、鈴江の胸《むね》にピタリとピストルを押《お》しつけた。どくろ仮面のしたからのぞいている目が、恐ろしく殺気をおびて光っている。それを見ると弥生はおもわず叫《さけ》んだ。 「ああ、鈴江さん、その人に黄金の女神|像《ぞう》をわたしてあげて……」 「だって、お嬢《じよう》さま、こんな悪者に……」 「いいの、いいの。真珠塔《しんじゆとう》さえ手にいれたら、この人だって、悪いことはやめるでしょう。あたしはもうなにもいらないのよ」 「それ、お嬢さんもああいっている。はやく黄金の女神像をわたせ」 「しかたがないわ。お嬢さまがそうおっしゃるなら……。そのピストルをどけてください」  金コウモリの怪人《かいじん》がピストルをおろすと、鈴江は不自由な足をひきながら、入り口のほうへ歩いていった。 「おい、どこへいくんだ」 「だまっておいで。女神像はここにかくしてあるのだから」  鈴江はそういいながら、入り口のよこの腰板《こしいた》をなでていたが、すると、だしぬけに三十センチ四方ばかりの小さなドアが、ピインとはねかえるように開いた。そしてそのあとには、小さなかくし金庫があるではないか。  鈴江はその金庫に両手をつっこみ、しばらくなかをさぐっていたが、やがて左手で取りだしたのは黄金の女神像。 「さあ、女神像はここにあるよ」 「おお」  と、よろこびの声をあげ、金コウモリの怪人が一歩まえへふみだしたときだった。とつぜん鈴江の右手から、ズドンと一発、ピストルが火をふいた。  ふいをつかれた金コウモリの怪人は、左のてのひらをうちぬかれて、おもわずアッとよろめいたが、ああ、そのときだった。  怪人の顔からどくろ仮面《かめん》がパラリと落ちて、そのしたからあらわれたのは!!  「ああ、あなたは……」  弥生はひとめその顔を見るなり、あまりのことに気をうしなってしまったが、そのとたん正体をあらわした怪人がいかりの顔つきものすごく、鈴江をめがけてズドンと一発。それが命中したのか、鈴江はヨロヨロとドアのそとへよろめき出ると、黄金の女神像をもったまま、まっさかさまに川のなかへ……。 「しまった!」  と、叫んだ怪人は、あわてて仮面をつけなおすと、血のしたたる左のてのひらを押《お》さえながら甲板《かんぱん》へ出てみたが、暗い川のおもてには、鈴江のすがたは見あたらない。  それからまもなく怪《あや》しい船は、気をうしなった弥生をのせて、いずこともなく走り去っていったが、それよりすこしまえのこと。  さっきから船室の屋根に、ヤモリのようにへばりついていたひとつの影《かげ》が、鈴江のあとを追って、音もなく、川のなかへすべりおりていったのを、さすがの怪人《かいじん》も、気がつかなかったのだった。  ヤモリのような影……いうまでもなく、それは探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴《みこしば》少年。    大|慈善市《バザー》  金コウモリに連れさられた弥生《やよい》は、そののちどうなっただろうか。それからまた、怪船《かいせん》のデッキから隅田川《すみだがわ》へ落ちた鈴江《すずえ》や、その鈴江のあとを追って、川のなかへもぐりこんだ御子柴進《みこしばすすむ》はどうしただろうか。  しかし、それらのことはしばらくおあずかりとしておいて、ここにはそれから一週間ほどのちに開かれた、セント・ニコラス教会の大バザーのことから、話をすすめていくことにしよう。  バザーとはふつう慈善市《じぜんいち》と書くとおり、情《なさ》けある人びとが、じぶんの品を持ちよって、それを売った金を慈善のために使うのである。その日、セント・ニコラス教会で開かれたバザーは、交通|事故《じこ》で親をうしなった孤児《こじ》たちのために、基金《ききん》をつのるのが、もくてきだった。  なにしろ、聖人《せいじん》のうわさのたかいニコラ神父が、主催者《しゆさいしや》となって開いたこんどのバザーだから、そのさかんなことといったらない。教会のなかはもちろん、ひろい庭にもいちめんに売店が開かれて、さまざまな珍《めずら》しい品を売っている。  いうまでもなく、それらの品は、セント・ニコラス教会の信者たちが持ちよったもので、売店の売り子も、みんな信者のおくさんや娘《むすめ》さんたちなのだ。そして、それを買いにあつまった人びとも、みんな信者の娘さんやおくさんたち。  だから、このバザーのにぎやかなことといったらない。  教会の庭には売店ばかりではなく、余興《よきよう》を見せる舞台《ぶたい》や食物店もできている。そして、会場いちめんにクモの巣のように張《は》りめぐらされたのは万国旗。おまけに教会のとがった塔《とう》のてっぺんから、軽気球がひとつ綱《つな》につながれて、フワリと宙《ちゆう》に浮《う》いているのである。  昼すぎからどんどん花火はあがるし、余興場の舞台ではバンドの音もうきうきと、いかにも、きょうのバザーの成功を祝っているかのよう。  しかし、それにもかかわらず、きょうのバザーの主人役、ニコラ神父の顔色が、なんとなくすぐれないのはどういうわけなのだろう。  神父は朝から、教会のまわりをまわって歩き、売店のおくさんや娘さんたち、あるいはおきゃくさんたちに、いちいちあいさつをしていたが、いつものようにげんきがなく、それに、だいぶやつれているように見える。  見ると左手に白いほうたいをしているが、ひょっとするとけがでもしていて、そのきずがいたむのではないだろうか。  さて、夕がたの四時ごろのこと、バザーもようやくおわりにちかづき、きゃくもだいぶすくなくなったころ、自動車でかけつけたのは新日報社《しんにつぽうしや》の三津木俊助《みつぎしゆんすけ》と等々力警部《とどろきけいぶ》。 「やあ、神父さん、きょうは盛会《せいかい》でけっこうでしたね」  俊助が、にこにこしながら声をかけると、神父はキョトンとした顔をして、 「はあ、ありがと。しかし、あなたはだれでしたか」  と、ふしぎそうにたずねた。 「あっはっは、神父さん、おわすれになっちゃいやですよ。ぼくです。三津木俊助です」 「三津木俊助さん……? ああ、思いだしました。新日報社の名探偵《めいたんてい》。お名まえは聞いております。そして、こちらのかたは?」 「おやおや、こちらもおわすれになったのですか。いつか柚木《ゆのき》さんのパーティーでいっしょになった警視庁《けいしちよう》の等々力警部ではありませんか」 「警視庁の……? ああ、そう、そうでした」  ニコラ神父の顔色には、苦しそうな色が浮《う》かんでいる。等々力警部はおこったように目をひからせて、神父の顔色を見ていた。 「ところで、神父さん、きょうきたのはほかでもありませんが、神父さんはもしや、丹羽百合子《にわゆりこ》や黒《くろ》河内晶子《こうちあきこ》という女性《じよせい》をごぞんじじゃありませんか」  そういうと三津木俊助は、返事を聞きたいといわんばかりに、キッとして、神父の顔色をみつめた。 「丹羽百合子と黒河内晶子……ええ、知っています。それが、どうかしましたか」  ニコラ神父は、ふしぎそうな顔色である。 「神父さん、あなたはふたりが死んだ、いや、殺されたことはごぞんじでしょうね」 「えっ、ミス丹羽とミス黒河内が殺された……? そ、それは、ほんとうですか」  神父の顔に浮かんだおどろきの色に、うそがあろうとはおもわれない。神父はほんとうにびっくりして、目をまるくしているのである。 「ほんとうです。しかも、ふたりとも、いま評判《ひようばん》の、金コウモリの怪人《かいじん》の手先になって、そのために殺されることになったのです」 「金コウモリの怪人ですって?」  神父はいよいよおどろいている。 「そうです。神父さんは金コウモリの怪人について、なにかごぞんじですか」 「いや、知りません。評判を聞いているだけです。しかし、あのふたりが金コウモリの怪人の手先だったというのは、ほんとうですか」 「ほんとうです。黒河内晶子が殺されてから、晶子さんの日記が発見されたのです。それによると、晶子さんはこの教会の信者だったそうですね」 「ええ、そう、たいへん熱心な信者でした」 「しかも、晶子さんはこの教会で、たびたび丹羽百合子に会ったと書いています。丹羽百合子さんも熱心な信者だったそうですね」 「ええ、そう、しかし、それがなにか……」 「ところが晶子さんの日記には、みょうなことが書いてあるのです。ニコラ神父、つまりあなたですね、あなたとふたりきりでお説教を聞いていると、いつか夢《ゆめ》にさそわれたような気になる。つまり催眠術《さいみんじゆつ》をかけられたような気持ちになるというんです」 「さ、さ、催眠術……?」  ニコラ神父は、なにか思いあたるところがあるらしく、まっさおになった。 「ええ、そう。しかも黒河内晶子さんも丹羽百合子さんも、金コウモリの怪人《かいじん》に、催眠術をかけられて、しらずしらずのうちに、手先にされていたらしい形跡《けいせき》があるのです」  三津木俊助はそこで、キッとニコラ神父の顔をみながら、 「そのことから考えると、すなわち、あなたが金コウモリの怪人ということになるのですが、神父さん、いかがですか」 「わたしは、知りません。そんな恐《おそ》ろしいこと、わたし、知りません」  ニコラ神父は、ことばをつよめて打ちけしたが、しかし、ひたいから滝《たき》のような汗《あせ》がながれている。  と、そのときだった。 「うそつき、この大うそつき、おまえこそ金コウモリの怪人なんだ。わたしはちゃんとおまえの顔をみたのだ」  と、とつぜん聞こえてきたするどい叫《さけ》び声に、一同がギョッとしてふりかえると、そこに立っているのは、身のたけ三メートルもあろうかという、大きなフランス人形である。  そのフランス人形は、きょうのバザーの売り物ではなく、会場のかざりとしてそこにおいてあったのだが、一同がふりかえったとたん、人形のすそからでてきたのは、足の不自由な鈴江《すずえ》ではないか。 「おお、鈴江さん、それでは隅田川《すみだがわ》のランチで見た、金コウモリの怪人とは、たしかにこの人にちがいないかね」 「そうです、そうです。この人にちがいありません。金コウモリの怪人は、ちょっとのあいだ、仮面《かめん》を落としたのです。そのとき、わたしは顔を見ましたが、たしかにこの人にちがいありません。そのしょうこには左手のほうたいです。わたしのうった弾丸《たま》は、金コウモリの怪人の、左のてのひらをつらぬいたのです。警部《けいぶ》さん、そいつの左手を調べてください」 「ニコラ神父。鈴江さんがああいってますから、ひとつ左手のほうたいをといてください」  等々力警部につめよられて、ニコラ神父はしかたなく、左手のほうたいをといたが、その手に目をやったとたん、一同はおもわず、アッと目をみはらずにはいられなかった。  ニコラ神父は左の手の甲《こう》に、大きなやけどこそしていたが、ピストルでうたれたようなきずあとは、どこにものこっていなかったのである。 「どうです。これで疑《うたが》い、はれましたか」 「しかし、神父さん、このやけどは……?」 「ゆうべ、バザーのしたくしているとき、煮《に》え湯をひっくりかえしてやけどしました。それにはたくさん、証人《しようにん》あります」  警部《けいぶ》はまだ疑いのはれやらぬおももちで、 「鈴江さん、金コウモリの左手をうったというの、ほんとうだろうね。まさか、気の迷《まよ》いじゃなかろうねえ」 「ほんとうです。弾丸《たま》があたって、たくさん血が流れたのです。しかし、どうしたのでしょう。わたしは、たしかにこの人だと思うのだけれど……」  鈴江は、キツネにでもつままれたような顔つきである。 「神父さん、失礼しました。とんでもない疑いをかけてすみません。しかし、神父さん」  と俊助はことばをつよめて、 「あなたはなにか、金コウモリの怪人についてごぞんじありませんか。鈴江さんの話によると、怪人はあなたにたいへんよく似《に》ているというし、それに黒《くろ》河内晶子《こうちあきこ》さんや丹羽百合子《にわゆりこ》さんのこともありますから……」  ニコラ神父の顔色には、またしても苦しげな色が浮《う》かんできた。 「神父さん、もしあなたがなにかごぞんじならば、正直にいってください。金コウモリの怪人を、いっときもはやくつかまえないと、ある人のいのちにかかわるかもしれないのです」 「ある人とは……?」 「柚木《ゆのき》老人のお嬢《じよう》さんの、弥生《やよい》さんです。弥生さんはあなたによく似た、金コウモリの怪人にどこかへ連れていかれたのです」 「や、弥生さんだって? そ、そ、そして、弥生さんのおとうさんはどうしたのですか。ミスター柚木は?」 「神父さん、あなたはそれをごぞんじないのですか。柚木さんは殺されました。それも金コウモリの怪人のために……」 「な、な、なんだって、ミスター柚木は殺されたんですって。わたしによく似た男に……」 「そうです、そうです。それですから神父さん、ごぞんじのことがあったら、なにもかも正直にいってください」 「あの悪者め、悪党《あくとう》め! わたしはすっかりだまされていた。警部さん、三津木さんもきてください」  ニコラ神父は白いあごひげをふるわせながら、気がくるったように走っていった。一同がそれについて走っていくと、神父はらせん[#「らせん」に傍点]型の階段《かいだん》をグルグルのぼって、やがて、やってきたのは尖塔《せんとう》のすぐしたである。 「カポン、出て来い、悪党カポン!」  神父が大声で叫《さけ》んだときだった。とつぜん、ズドンと一発、ピストルの音がとどろいたかとおもうと、ヒューッと風を切って、弾丸《たま》がしたのほうへとんだ。  一同はおもわずらせん階段《かいだん》のとちゅうで立ちどまり、ハッと、うえをあおいだが、と、見ると、階段のうえに仁王立《におうだ》ちになって、キッとピストルをかまえているのは、なんとニコラ神父とウリふたつの男ではないか。 「カポン」  と、神父はしわがれ声をあげて、 「よくもよくも、おまえはわたしをだましたな。弥生さんはどこにいる。弥生さんをここにだしなさい」 「あっはっは、ふたごのにいさん。まあ、そうおこんなさんな。弥生さんなら天にいるよ」 「なに、天にいる。それでは殺してしまったのか」 「なあに、天といっても天国ではない。ほら、空に浮《う》かんでいる軽気球のなかにいるんだ」 「な、な、なに、け、軽気球のなかに……?」 「そうだ。そして、いまに天国へとんでいくんだ。ふたごのにいさん、おれもひとりで死ぬのはさびしいから、あの子をいっしょに連れていくよ。あっはっは、三津木俊助、等々力|警部《けいぶ》、さようなら!」  ニコラ神父とウリふたつの男は、そういってうやうやしく一礼すると、サッと身をひるがえしてすがたを消した。 「あっ、しまった! 待て!」  一同が大いそぎで尖塔《せんとう》のてっぺんまでのぼってくると、ああ、なんということだろう。そこにつないであった軽気球の綱《つな》が切られて、いましも丸い軽気球は、フワリフワリと空にとんでいくではないか。しかも、その綱のはしには、ニコラ神父のふたごの弟、悪党《あくとう》のカポンがぶらさがり、片手《かたて》をふって……!    死の道づれ 「おのれ、おのれ、悪党カポン!」  等々力警部《とどろきけいぶ》はやっきとなって、腰《こし》のピストルをぶっ放したが、しかし、カポンのからだはすでにピストルの射程距離《しやていきより》より遠くはなれて、弾丸はいたずらに空中に、線をえがくばかり。と、このとき、とつぜん、軽気球のカゴのなかから、むっくりと顔を出したのは、ああ、なんと、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴《みこしば》少年ではないか。 「あっ、探偵小僧!」  三津木俊助《みつぎしゆんすけ》はおもわず手に汗《あせ》をにぎった。ほかの人たちも、ギョッと息をのんだのはいうまでもない。  探偵小僧《たんていこぞう》は口に手をあて、必死となってなにやら叫《さけ》んでいる。しかし、もうかなり距離《きより》があるので、なにをいっているのかわからない。探偵小僧もそれに気がついたのか、指で空中に大きく字を書きはじめた。 「あっ! ヘリコプターと書いているんだ」 「そうだ、そうだ。こんなことをしている場合ではない。すぐに軽気球を追跡《ついせき》しなければ……」 「警部《けいぶ》さん、あなたはぼくの社に電話をかけて、いつでもヘリコプターが飛びだせるよう、用意をしておくようにつたえておいてくださいませんか。ぼくはこれからすぐに、自動車で社へ帰ります」 「ようし!」  そういう話ももどかしく、ふたりはあたふたと階段《かいだん》をかけおりると、三津木俊助はそのままおもてに待たせてあった自動車へ、等々力警部は電話室へとびこんだ。  ニコラ神父はすっかりびっくりぎょうてんして、松葉杖《まつばづえ》の鈴江《すずえ》といっしょに、よたよたと階段をかけおりる。  さて、それからまもなく、俊助が社へ帰ると、ヘリコプターはすでに用意ばんたんととのっていた。そこで大いそぎで飛行服に身をかためた俊助は、ただちに新日報社《しんにつぽうしや》の屋上から飛び立った。  さあ、このことが早くもラジオのニュースとなって、東京じゅうにひろがったので、軽気球の飛んでいく道すじにあたった町では、わきかえるような騒《さわ》ぎである。 「ああ、あの軽気球にぶらさがっているのが、金コウモリの怪人《かいじん》なんだ!」 「そして、あのカゴのなかにはかわいそうに、少年少女が乗っているんだ」 「あっ、ヘリコプターが追っかけていく!」 「ヘリコプター、しっかり!」 「しかし、ヘリコプターが追っかけたところでどうなるんだ。空中でどうして少年少女を救うことができるんだ」  まさにそのとおりだ。三津木俊助はどうして、弥生《やよい》と探偵小僧を救いだすつもりなのだろうか。  軽気球はおりからの風にのって、しだいに東京|湾《わん》のほうへ流れていく。それと見るや、警視庁《けいしちよう》からの電話によって、あらかじめ待機していた海上|保安庁《ほあんちよう》のランチがばらばらと、クモの子を散らすように追っていく。  なにしろ、あいてはただ風にのって流れていく軽気球のことだから、ヘリコプターもランチも、すぐ追いつくことができた。  ヘリコプターは軽気球のまうえまでくると、ゆるく輪をえがいていたが、やがてパラリと投げおろされたのは一本の綱《つな》である。探偵小僧の御子柴少年は、軽気球から身をのり出して、その綱をつかもうとするのだが、なかなかうまくいかない。  金コウモリの怪人はそれに気がつくと、したからピストルをぶっぱなした。  怪人《かいじん》は進《すすむ》をねらっているのだろうか。いやいや、そうではなかった。怪人のねらっているのは軽気球だったのだ。  ああ、なんという悪いやつだろう。なんという悪人だろう。怪人は軽気球を爆発《ばくはつ》させて、弥生や進を、死のみちづれにしようというのである。  東京|湾《わん》に浮《う》かんでいる船という船から、人びとがこのようすを見て、手に汗《あせ》をにぎってはらはらしている。  あの綱が進の手ににぎられるのが早いか、それとも、怪人のねらいがきまって、軽気球の爆発するのが早いか。それによって、弥生と進の運命はきまるのだ。  しかし、金コウモリの怪人も、左手にけがをしているだけ弱みがあった。もし、左手にけがをしていなかったら、もっと早く綱をのぼって、軽気球のカゴにたどりつき、おそらく、弥生や進は、いままで生きていなかったことだろう。  それに、怪人は右手で綱にぶらさがっているので、不自由な左手を使わねばならない。しかもその左手にはけがをしているのだから、どうしても、うまくピストルのねらいがさだまらないのである。  ズドン!  ズドン!  と、音がするたびに、船のうえから見ている人びとは、手に汗をにぎっていきをのむ。ましてや、ヘリコプターに乗っている三津木俊助は、いったいどんな思いだっただろう。それこそ、命がちぢまるような気持ちだったにちがいない。  だが、ああ、天の助けか、やっと綱のさきが進の手ににぎられた。進は綱をたぐると。軽気球のカゴのなかに身をかがめた。  ヘリコプターは軽気球と、適当《てきとう》な間隔《かんかく》をたもちながら、ゆるく空中に輪をえがいている。一しゅん、二しゅん……。  さっき、進の手に綱のはしがにぎられたとき、万雷《ばんらい》のような拍手《はくしゆ》を送った人びとも、進のすがたがあまり長く、カゴのなかからあらわれないので、いったいどうしたのだろうと、不安な思いで息をのんで、軽気球を見まもっている。  だが……。  とうとう進のすがたが、軽気球のカゴからあらわれた。手をふって、ヘリコプターに合図をしている。  と、いままでゆるくたるんでいた綱が、ヘリコプターの機上からたぐりよせられ、しだいにピインと緊張《きんちよう》したかと思うとやがて、綱に両手をかけた進のからだが、まず、軽気球のカゴからはなれた。  しかし、綱《つな》のはしはまだ軽気球のなかにのこっている。進はサルのような身軽さで、どんどん綱をのぼっていった。  ヘリコプターはグラリと横にかたむいたが、それでもたくみに平こうをたもって、あいかわらず、ゆるく輪をえがいている。  進はとうとうヘリコプターにたどりついた。三津木俊助が機上から手をのばして進をうえにひきあげた。むろん、俊助のからだは綱で機上に結びつけてあるのはいうまでもない。 「あっ、三津木さん、ぼくのからだもはやく機上につないでください」 「よし!」  と、叫《さけ》んで俊助がすばやく進のからだを機体にむすびつけると、こんどはふたりで、全身の力をこめて綱をたぐりはじめた。  ふたりが綱をたぐっていくにしたがって、軽気球のカゴのなかからあらわれたのは、綱のさきにがんじょうに、ゆわえつけられた弥生のからだである。弥生は気をうしなっているのか、ぐったりしている。  弥生が軽気球のカゴをはなれると同時に、ヘリコプターは、ややスピードをまし、軽気球から遠くはなれたが、じつにそのしゅんかんだった。  金コウモリの怪人のはなった一|弾《だん》が、みごと軽気球に命中したからたまらない。  パッと青白いほのおをあげて、軽気球の袋《ふくろ》が爆発《ばくはつ》したかと思うと、軽気球は金コウモリの怪人《かいじん》とともに、つぶてのように海上へ落ちていった。  ああ、あぶない、あぶない。もうすこし弥生を引きあげるのがおくれたら、ガスの爆発のために、弥生《やよい》はどんな大けがをしたかわからないのだ。  その夜のラジオで、弥生と進が、ぶじに救われたことを聞いた人びとは、どんなにかよろこび、安心したことだろう。そして、だれひとり進の勇敢な働きを、ほめたたえないものはいなかったのだった。    こうして、さしも世間をさわさがせた、金コウモリの怪人もほろび去った。不幸にも怪人の死体は発見されなかったが、フカにかみ切られたらしい片足《かたあし》が見つかって、それが怪人の足らしいということになったので、金コウモリの怪人が死んだということは、たぶんまちがいのないことと思われた。  さて、うちつづく恐《おそ》ろしいできごとに、弥生はからだをいためて、しばらく静養していたが、それもすっかりよくなったので、きょうはこの事件《じけん》に関係した人びとが、セント・ニコラス教会に集まって、事件について語りあうことになった。  集まったのはニコラ神父をはじめとして、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》に探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴《みこしば》少年、等々力警部《とどろきけいぶ》に弥生、ほかに松葉杖《まつばづえ》の鈴江《すずえ》も席につらなっている。 「さて、神父さん」  と、一同が集まったところで、まず第一に口を切ったのは三津木俊助だった。 「さいしょにおうかがいしたいのは、あなたとふたごのきょうだいのカポンのことですが、どうしてあなたは、カポンという男と入れかわっていたのですか」  ニコラ神父は心ぐるしそうに、 「それについては、じゅうじゅう、みなさんに、おわびしなければなりません。じつはこの春ごろから、とかく、わたくし、健康がおもわしくありません。ドクトルに見てもらうと、二、三か月静養したほうがよろしいといいます。しかし、せっかく信者もふえ、教会もさかんになっているおりから、わたくし、休む、たいへん打撃《だげき》になります。そこへ、とつぜん、ふたごの弟カポンきました」  ニコラ神父はいよいよ心ぐるしそうに、 「カポンいうのに、そんなわけなら、だれにもいわずに遠いところで、静養したほうよろしい。るすちゅうはじぶん、身がわりになってあげる、と、こういいます。カポンも昔、神父でした。しかし、悪事をはたらいて教会から破門《はもん》されました。カポン、たいへん悔《く》いあらためてるふうみせました。わたくし、きょうだいですから、カポンのこと心配していました。もし、じぶんの身がわり正直につとめてくれるなら、ローマ法皇《ほうおう》にとりなしして、破門、ゆるしてもらうよう、考えました」  ニコラ神父はひたいの汗《あせ》をふきながら、 「わたくし、あとのこと、カポンにまかせて、別府《べつぷ》へいきました。新聞、ほとんど読みません。カポン、ときどき手紙くれました。たいへん正直らしい手紙でした。わたくし、安心していました。病気なおって、このあいだ東京へ帰ってきました。カポン、左手、けがしていました。あやまって、ドアにかまれたといいました。わたくし、るすちゅうのこと調べました。カポン、正直にやっていました。わたくしローマ法皇に、取りなしの手紙書いて、近くイタリアへやるつもりでした。わたくし、だまされました。残念です」  ニコラ神父の両眼《りようがん》から、滝のように涙《なみだ》が流れている。 「しかし、ニコラ神父」  と、等々力|警部《けいぶ》がことばを強めて、 「カポンはどうして、柚木真珠王《ゆのきしんじゆおう》の真珠塔《しんじゆとう》のことを、知っていたのですか」 「ああ、そのこと、それ、わたくし日記に書いておきました。本物の真珠塔、どこか、この教会にかくしてある。そのありかは金庫のなかに張《は》ってある、柚木さんそんなこといいました。わたくし、それを日記に書いておきました。カポン、日記読んだにちがいありません」 「なるほど、それでわかりました。ときに神父さん」  と、俊助は身を乗り出して、 「カポンは催眠術《さいみんじゆつ》をやるのですか」 「ええ、そう、カポン、昔もそれで悪事、働きました。カポン、催眠術の名人、おおぜいの人に、同時に、同じまぼろし、みせることができます」 「集団催眠術というやつですね」 「しかし、ニコラ神父」  等々力警部は、まだ疑《うたが》いのはれやらぬ顔色で、 「いつかわたしの見た金コウモリは、とても催眠術とは思えませんでしたよ」 「ぼくが見たときも、ぼくの肩《かた》にさわっていきましたよ」  と、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴少年も、ふ[#「ふ」に傍点]に落ちぬ顔色だったが、と、このとき、とつぜん電気が消えて、部屋《へや》のなかがまっ暗になったかと思うと、おお、なんということだろう。ひとつ、二つ三つ……またしてもヒラヒラと、金色のコウモリが舞《ま》いあがったではないか。    8・4・1の秘密《ひみつ》 「あっ、金コウモリだ!」  暗闇《くらやみ》のなかから等々力警部《とどろきけいぶ》が叫《さけ》んだかと思うと、ズドン、ズドンとピストルの音。その一発が命中したのか、金コウモリはパンとみょうな音を立て、いっぺんに小さくちぢまったかと思うと、床《ゆか》のほうへ落ちてきた。そのとたん電気がパッとついたので等々力警部がいそいでひろいあげてみると、なんと床のうえに落ちているのはゴム風船ではないか。ゴム風船のうえに、金色の夜光|塗料《とりよう》がぬってあるのである。  天井《てんじよう》をみると、コウモリのかたちをしたゴム風船がフワリフワリと飛んでいる。等々力警部はキッとニコラ神父の顔をにらんで、 「ニコラ神父、こ、これはいったいどうしたんですか。これはあなたのやったことなんですか」  ニコラ神父はびっくりしたように目をまるくしていたが、そのとき、そばから、カラカラと笑ったのは三津木俊助《みつぎしゆんすけ》。 「あっはっは、警部さん、ごめんなさい。それはぼくが、ちょっといたずらをしてみたんです」 「き、きみが……」 「そうです、そうです。カポンは集団|催眠術《さいみんじゆつ》で、群衆《ぐんしゆう》に金コウモリの暗示《あんじ》をあたえたこともあるのでしょう。しかし、それがいつも成功するとはかぎらないので、こういうゴム風船を使ったのでしょう。あるいは本物のコウモリに夜光塗料をぬって、おどろかせたばあいもあるのかもわかりません。とにかく、そのとき、そのばあいによって、いろんな手を使ったのですね。その目的はいうまでもなく、人びとを恐怖《きようふ》と混乱《こんらん》におとしいれ、そのすきに悪事を働こうというのでしょう。カポンは真珠塔《しんじゆとう》の事件《じけん》でこそ失敗しましたが、きっと、どこかで、もっとほかの悪事を働いているにちがいありません」  それを聞くとニコラ神父は、また涙《なみだ》を流して一同にあやまった。 「まあ、しかし、神父さんはなにもごぞんじなかったのだから……。それよりも、本物の真珠塔のありかですが……」  と、俊助がポケットから取り出したのは金コウモリの怪人《かいじん》に、あやうくうち殺されそうになった鈴江《すずえ》が、隅田川《すみだがわ》へとびこんだとき、手にしていたあの黄金の女神|像《ぞう》である。 「ごらんなさい。この女神像の台座《だいざ》のうらにも8・4・1という数字がほってあります。それについてぼくには考えることがあるんですが、ちょっとみなさん、きいてください」  と、三津木俊助がやってきたのは、いつぞやの十三番めの聖母像《せいぼぞう》の前だった。その聖母の胸《むね》に、時計《とけい》の文字盤《もじばん》のようなものがとりつけてあることはまえにも書いたから、読者もよくごぞんじだろう。 「あのとき、われわれは時計の針《はり》を、八時、四時、一時とまわしたのでしたね。そうすると、この聖母像のしたに抜《ぬ》け穴《あな》の入り口があることがわかったのです。しかし、あれはまちがいじゃなかったのでしょうか。この女神像にほってある数字は、女神像をさかさにしなければ見えません。と、いうことは秘密《ひみつ》の暗号は、8・4・1ではなく、1・4・8ではないでしょうか。ひとつ、やってみましょう」  三津木俊助はふるえる指で、時計の針をまず一時に、それから四時に、そして、さいごに八時にあわせたが、ああ、そのときだった。  女神像の内部で、ギリギリという音がしたかと思うと、目にみえぬ着物のひだから、像の下半身が左右にわれていって、そこにさんぜんとひかっているのは、ああ、まぎれもなく本物の真珠塔《しんじゆとう》ではないか。 「ばんざあい!」  探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴《みこしば》少年が、おもわず手をたたいて叫《さけ》んだ。弥生《やよい》のひとみからは滝《たき》のように涙《なみだ》が流れた。むろん、うれし涙である。  こうして金コウモリの怪人《かいじん》はほろび、真珠塔がめでたく弥生の手にもどったので、この物語もおしまいとするが、さいごにちょっとつけくわえておきたいのは、足の不自由な鈴江も、弥生にひきとられてたいへん幸福になったということである。 [#改ページ] [#見出し]  獣人魔島《じゆうじんまとう》 [#改ページ]    死刑囚脱獄《しけいしゆうだつごく》  昭和××年八月一日の朝のこと。  なにげなく新聞の社会面をひらいた人びとは、みな、いちようにアッとばかりに息をのんだ。  どの新聞の社会面にも、大きな活字で、でかでかと『死刑囚脱走《しけいしゆうだつそう》』だの、『野《の》にはなたれたトラ』だの、または、『危険《きけん》にさらされた三芳判事《みよしはんじ》一家』だのという見出しが、読む人をおびやかすように出ていたのであった。  その記事の内容《ないよう》というのはこうである。  死刑をいいわたされて、小菅刑務所《こすげけいむしよ》にとらえられていた、梶原一彦《かじわらかずひこ》という青年が、ゆうべ、看守《かんしゆ》のすきをうかがい、刑務所を脱走したきり、まだ、ゆくえがわからないというのである。梶原一彦はことし二十五|歳《さい》であった。  ある私立大学を卒業した秀才《しゆうさい》だったが、生まれつき悪知恵《わるぢえ》にたけていて、ひとしれず悪事に悪事をかさねていたが、しまいには、じぶんの恩人《おんじん》ともいうべきおば[#「おば」に傍点]を毒殺して、財産《ざいさん》をよこどりしようとしたのがばれて、とうとうとらえられたのである。  梶原一彦のおかした罪《つみ》には、すこしも同情《どうじよう》できるところがなかった。  おば殺しだけでも、大罪人《だいざいにん》だのに、そのほかいろいろ悪いことがわかったので、この裁判《さいばん》をうけもった三芳判事は、世にもにくむべき大悪人として、なんのためらいもなく死刑をいいわたした。  ところが、自分の悪事を棚《たな》にあげたさかうらみから、死刑をいいわたされたとたん、梶原一彦は猛獣《もうじゆう》のようにたけりくるって、 「おのれ三芳判事め! このうらみはきっとはらすぞ。おれは死なない。死刑になんかなるものか。いつかきっと脱走して、きさまはもちろん、きさまの一家をみな殺しにしてくれる」  と叫《さけ》びつづけたというのである。  このことは、そのころ、新聞に報道されて、この大悪人のしゅうねんぶかさに、人びとは舌《した》をまいておどろいたものである。  その大悪人の梶原一彦が、とうとう刑務所から脱走したというのだ。人びとが、ふるえあがって、恐《おそ》れおののいたのもむりはない。  どうせ、とらえられれば死刑になる梶原一彦だ。  これよりもおもい刑罰《けいばつ》はないのだから、やけになって、どんなことをやらかさないともかぎらない。じゃまになるとわかったら、かたっぱしから、人殺しをしてまわるかもしれないではないか。  こうして東京じゅう、いや、日本じゅうがビクビクして恐れおののいているなかでも、もっとも大きな不安につつまれているのは、いうまでもなく三芳判事の一家である。  三芳判事の家は芝公園《しばこうえん》のそばにあり、家族は、判事の三芳|隆吉《りゆうきち》と、おくさんの文江《ふみえ》、そのあいだに由紀子《ゆきこ》という、ことし十三|歳《さい》になる娘《むすめ》があり、そのほかに、おあきという主人おもいのお手伝い……と、以上四人ぐらしだが、梶原一彦が脱走《だつそう》したときいて、サッと不安の思いにつつまれたというのもむりはない。  警察《けいさつ》でも、むろんすててはおかなかった。  梶原脱走ときくと、すぐに数名の警官《けいかん》を、三芳|邸《てい》によこして、その内外を厳重《げんじゆう》に警戒《けいかい》させることになった。  しかし、どんな厳重な警戒でも、人間のことだから、いつかすきができるのではないか。そしてそのすきをねらって、あのしゅうねんぶかい梶原が、しのびこんでくるのではあるまいか。  こうして、三芳判事の一家は、いまや風前《ふうぜん》のともしびともいうべき、危険《きけん》にさらされているのである。  今夜も今夜とて、三芳判事のうちのまわりには、警官が五、六名、厳重に見張《みは》りをつづけている。  三芳判事はきのうから、地方へ出張旅行をしているので、今夜、うちにいるのは、おくさんの文江と、由紀子、それにお手伝いのおあきの三人だけだが、そのほかに、るすばんとしてとまりにきているのが、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》少年だ。  御子柴進というのは、新日報社《しんにつぽうしや》の給仕だが、ふしぎに探偵の才能《さいのう》があるところから、探偵小僧のあだ名がある。新日報社のベテラン記者、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》の片腕《かたうで》となって、怪事件《かいじけん》を解決《かいけつ》したこともたびたびある。  進はもとこの近くに住んでいて、三芳判事にもかわいがられ、由起子ともおさななじみなので、こんどのことが起こると心配して、毎日、見舞《みま》いにきていたのだが、三芳判事がるすになるので、きのうからここにとまっているのである。 「おばさんも、由紀子さんも、心配することはありませんよ。おまわりさんが、ああして、厳重に見張りをしていてくれるのだし、およばずながら、ぼくもここにいるのだから、気を大きく持っていてください」  進になぐさめられ、おくさんの文江は、ホッとため息をつき、 「ほんとにありがたいと思ってるわ、進さん。わたしねえ、このうちのことは心配しないのよ。みなさんが気をつけてくださいますからね。ただ、旅行中の主人のことが心配で心配で……」 「ほんとうに、おとうさんの身に、もしものことがあったら……」  と、由紀子も涙《なみだ》ぐむ。  進は、わざと元気よく笑って、 「由紀子さん、それこそ、とりこし苦労というものですよ。おじさんにはボデーガードとして刑事《けいじ》さんが三人、見えがくれについているはずです。梶原のやつが近づいたら、それこそさいわいすぐふんづかまえて、こんどこそ逃《に》がさないように、刑務所《けいむしよ》へぶちこんでしまいますからね」 「ほんとに、それだといいんですけれど……。いつまでもみなさんに、ごめいわくをおかけするのが心ぐるしくて……」 「しかし、警察《けいさつ》では、それがつとめですもの。ぼくだって、新聞社につとめているんですから、ここにいるのも仕事のうちなんですよ」 「ねえ、進さん」  と、由紀子が不安そうにたずねる。 「きょうはもう八月の十五日でしょう。あれから二週間もたつのに、ちっともゆくえがわからないなんて、あの人、どうしたんでしょうねえ」 「ああ、それですがねえ。ぼく、ひょっとすると、あいつ、どこかでひとしれず、自殺したんじゃないかと思うんです。つかまったら、どうせ死刑《しけい》ですからねえ」 「それだと、どんなにいいでしょうねえ。本人のためにもね」  おばさんはまた、ホッとため息をつく。 「まあ、そういうわけですから、そんなに心配することはありませんよ。さあ、もうねようじゃありませんか。おや、もう十時ですよ」 「あら、すみません。いつもおそくまで起こしていて……」  と、おばさんはお手伝いのおあきといっしょに、もういちど戸じまりを調べなおしてから、それぞれ、部屋《へや》へ帰ってねどこへはいったが、それから二時間ほどのちのこと。  一同がしいんとねしずまったころ、家のなかから、ふいに、カタリとかすかなもの音がしたかとおもうと、つづいて、カタコトと、ものをこじあけるような音が聞こえた。  どうやら、台所のほうかららしい。ネズミだろうか。  いや、いや、そうではなかった。  台所のあげ板をあげて、ぬうっと顔をだしたのは、ひげだらけの男。……いうまでもなく脱走死刑囚《だつそうしけいしゆう》の梶原一彦だ。どこで手にいれたのか、ふるびた洋服にとりうち帽子《ぼうし》をまぶかにかぶり、片手《かたて》にピストル、片手に懐中電灯《かいちゆうでんとう》をふりかざし、すごい目つきで、キッと、あたりを見まわした。  ああ、大悪人の梶原は外から地下道を掘《ほ》り、いま、この台所へぬけてきたのだ。    探偵小僧《たんていこぞう》の機転  探偵小僧の御子柴進《みこしばすすむ》にはひとつの秘密《ひみつ》がある。  それは、おばさんや由紀子《ゆきこ》、お手伝いのおあきがねるのをまって、ソッと起きだし、家のなかにいろんなしかけをしておくのだ。  その例のひとつをのべると、台所から茶の間《ま》へはいるドアをひらくと、うえから水をいれたバケツが落ちてきて、はいってきた人間が、いやでも水をかぶるばかりか、大きな音をたてるというしかけである。  そのほかにも、家のなかのこれはというところに、いろんなしかけをしておいて、なにごとも起こらずにすむと、それさいわいと、つぎの朝いちばん早く起きだして、ソッとしかけをかたづけておくのだ。  それは、おばさんや由紀子に、いらない心配をさせないためだ。  さて、その晩《ばん》のこと。  ようやく、眠《ねむ》りかけていた進は、だしぬけに、けたたましいもの音に目をさました。  ガラガラガッチャンとバケツのひっくりかえる音にまじって、ザーッと水の流れる音。 (そら、きた!)  と、さっとねどこのうえに起きなおった進は、まくらもとにつけっぱなしのままおいてある、懐中電灯《かいちゆうでんとう》をひっつかむと、 「おばさん、由紀子さん!」  と、小声で叫《さけ》びながら、となりの座敷《ざしき》へとびこんだ。となりの座敷でも、おばさんと由紀子が起きなおって、まっさおになってがたがたふるえている。 「す、す、進さん、あのもの音、なあに?」 「きたんです。きたんです。だれかがしのびこんできたんです。さ、さ、はやく、まえから話しておいたとおりに……」 「進さん、進さん」  由紀子はおもわず進にとりすがる。その手は氷のようにつめたかった。 「だいじょうぶ、だいじょうぶ。すぐにはこちらへ、こられやしない。さ、さ、はやく、はやく!」  押《お》し入れのふすまをひらくと、天井《てんじよう》の板がずらしてある。進はふたりのからだを押し入れの上の段《だん》へ押しあげると、すぐにぴたりとふすまをしめる。 「おばさん、だいじょうぶ? 由紀子さんだいじょうぶ?」 「ええ、もう、だいじょうぶ。進さん、あなたもはやく逃《に》げて……」  ふたりとも、天井裏《てんじよううら》へはいあがったらしく、がたごとと押し入れのなかの天井板をしめる音がする。  それを聞きすましておいて、進は、雨戸をひらいて庭へとびだし、パジャマのボタンにぶらさげてある。よびこの笛をふきながら、庭をぬけて、まっしぐらに裏木戸《うらきど》へ走った。見張《みは》りの警官《けいかん》を呼《よ》びいれるためである。  だが、そのあいだ大悪人の梶原《かじわら》は、いったい、何をしていたのだろうか。  茶の間へはいるドアを開いたとたん、頭のうえから落ちてきたバケツの水を、いやというほどあびせかけられた梶原は、ふいをつかれて、手にした懐中《かいちゆう》電灯を落とした。 「ちくしょう!」  ズブぬれになった梶原は、あわてて懐中電灯をひろおうとしたが、あいにく床《ゆか》に落ちたとたん、あかりが消えたのでどこにあるかわからない。  梶原はぐずぐずしてはおれなかった。さっきのもの音は、家の外まで聞こえたにちがいない。  家の外には警官《けいかん》が、ピストル片手《かたて》に、見張《みは》りをしていることを知っている。  梶原は暗がりのなかを手さぐりで、茶の間へぬけだし廊下《ろうか》へ出たが、そのとたん、ねっとりとしたものに靴《くつ》を吸《す》われて、おもわずまえにつんのめった。  進は、廊下のあちこちに、とりもちをいっぱいいれた、浅い、ひらたいブリキのいれものをおいておいたのだ。梶原はいま、暗がりのなかで、そのとりもちのなかへ、片足《かたあし》をつっこんだのである。 「ちくしょう、ちくしょう! だれがこんなしかけをしやあがった!」  梶原はバリバリ歯をかみならしながら、足をぬこうとするのだが、あせればあせるほど靴は吸いつく。もうこうなったら、靴をぬぐよりしかたがない。  ところが、梶原にとって運の悪いことには、かれのはいているのは、あみあげの靴である。短靴のようにかんたんにぬげない。  やっとのことで靴をぬぎ、二、三歩走りだしたところで、またもや、ずんでんどうと大きな音をたててひっくりかえった。  廊下に張《は》りわたしてある綱《つな》に、足をひっかけたのである。 「ち、ち、ちくしょう!」  梶原はいよいよくやしそうに歯をかみながら、やっとのことで起きなおったが、そのとき聞こえてきたのは、よびこの音。それにつづいて、どやどやと警官《けいかん》たちのいりみだれた足音が近づいてきた。 「しまった、しまった、ちくしょうめ!」  梶原はしかし、それほど警官たちを恐《おそ》れなかった。かれは死ぬかくごでいるのである。ただ、そのまえに三芳判事《みよしはんじ》が、目のなかへいれてもいたくないほどかわいがっている、由紀子を殺してやろうと思っているのだ。  それも、ひとおもいに殺すのではあきたらなかった。できれば、いじめて、いじめて、いじめぬいたあげく殺してやらなければ、あきたらなかった。大悪人の梶原は、ヘビのようにしゅうねんぶかい男である。  それはさておき、梶原はやっと由紀子たちのねていた部屋《へや》をさぐりあてると、壁《かべ》のスイッチをひねったが、ふたつのねどこは、むろん|も抜《ヽぬ》けのからである。見れば雨戸もあいている。  まさか天井裏《てんじよううら》に由紀子とおかあさんが、息をころしてかくれているとは知らないから、てっきり、庭へ逃《に》げたとおもいこみ、 「ちくしょう! これでもくらえ!」  と、ふたつのねどこに一発ずつ、ピストルの弾丸《たま》をぶちこむと、身をひるがえして廊下へでた。  見ると座敷《ざしき》のすぐ横に階段《かいだん》があり、階段のそばにスイッチがある。大悪人の梶原は、階段の電気をつけると、そのまま二階へかけあがる。そのとき、庭から警官《けいかん》たちが、座敷のなかへなだれこんできた。 「梶原、しんみょうにしろ」 「おとなしく刑務所《けいむしよ》へ帰れ!」  梶原はそんなことばを耳にもかけない。二階へあがって雨戸を開くと、うまいぐあいに外はものほし台である。梶原はその柱をつたわって大屋根《おおやね》へでる。 「あっ、大屋根へあがったぞ。梶原、もう逃《に》げられないぞ!」  外を警戒《けいかい》していた警官が、おりからの月の光に梶原のすがたを見つけて大声に叫《さけ》ぶ。 「なにを! これでもくらえ!」  梶原は上からズドンと一発、警官めがけてぶっぱなす。 「こいつ、手向かいするか!」  手向かいすれば、うち殺してもいいという命令をうけている警官は、したからこれまたピストルをぶっぱなす。  梶原はその弾丸《たま》をよけながら、大屋根をはっていったが、そのとき、うしろから警官がふたり、これまた、ものほし台の柱をつたわって、大屋根へあがってきた。 「梶原、しんみょうにしろ! おとなしく刑務所へ帰れ!」  梶原はやがて大屋根のはしへきた。うしろからは警官がピストルを身がまえたまま、じりじりとはいよってくる。大屋根から地上までは数メートル。うまくとびおりたところで、そこには警官がまっている。  絶体絶命《ぜつたいぜつめい》の梶原は、血ばしった目であたりを見まわしていたが、ふとその目についたのは、三メートルほどはなれたところに、からかさのように枝《えだ》をひろげている、ヒマラヤ杉《すぎ》の大木である。それを見ると梶原は身をしずめて、ぱっとその枝へとびついた。 「おのれ、梶原、逃げるか!」  屋根の上から警官が、ズドンズドンとピストルをぶっぱなす。  それをしりめに梶原は、ヒマラヤ杉の枝のうえで、すばやく、姿勢《しせい》をととのえたかと思うと、またもや身をおどらせて、つぎの木へ……。  まえにもいったように、三芳|判事《はんじ》の家は芝公園《しばこうえん》のすぐそばにあり、塀《へい》の外には公園の木がそびえている。だから、塀をはさんで三芳家の木と、公園の木が枝をまじえて、しげっているのだ。  大悪人の梶原は、サルのように枝から枝へとつたわって逃げているうちに、いつしか、三芳家の塀をのりこえ、公園のなかへはいりこんでいた。それと気づいた屋根のうえの警官が、 「しまった! 逃げるぞ!」  と、叫びながらぶっぱなした一発が、梶原のどこかに命中したのにちがいない。 「あっ!」  と、ひと声、悲鳴をのこして梶原は、カシの木のてっぺんから、二、三ど枝《えだ》にひっかかったのち、公園のなかへ落ちていった。 「ああ、梶原が公園のなかへ落ちたぞ!」  屋根のうえから叫《さけ》ぶ警官《けいかん》の声に、庭を見張《みは》っていた三人の警官が、バラバラと裏木戸《うらきど》からとびだしていく。いまの乱闘《らんとう》のあいだに、すばやく洋服にきかえた進も、警官のあとから、走っていく。  ところが、こまったことには、その裏木戸は、いま梶原が落ちていった塀《へい》の外とは、ぜんぜん反対の方角についているのだ。だから、そこから梶原が落ちていった公園へはいっていくには、ぐるりと町をひとまわりしなければならない。  三分ののち、三人の警官と進は、梶原の落ちたところへかけつけたが、そこにはもう梶原のすがたは見えなかった。  梶原を屋根のうえまで追いつめた警官たちも、いそいで屋根からおりると、三芳家の塀をのりこえてやってきた。 「どうした、どうした。梶原《かじわら》はどこへいった」 「どこへいったか、すがたが見えないんです」 「すがたが見えないって、そんなばかなことがあるもんか。あいつはピストルに撃《う》たれているんだ。それに、あの高い木のてっぺんから落ちたんだから、きっとけがをしているのにちがいない。遠くへは行かないだろう。みんなでさがしてみろ!」  巡査《じゆんさ》部長の命令で、みんなが手わけをしてさがしているところへ、ピストルの音を聞きつけて、近所の人がおおぜい起きてきた。その人たちにも手伝ってもらって、公園のすみからすみまでさがしてみたが、梶原のすがたはどこにも見えない。  探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》は、リスのようにチョコチョコと、木のしたや石のかげをかけずりまわって、梶原のゆくえをさがしていたが、ふいにギョッと立ちどまった。  そこは三芳家から三百メートルほどはなれたところである。公園のすぐそばに、古ぼけた一|軒《けん》の洋館がたっているが、その洋館の裏木戸《うらきど》の外に、ひとかたまりの血が落ちている。懐中《かいちゆう》電灯で調べてみると、その血はてんてんと、木戸のなかまでつづいているのだ。 「あっ、おまわりさん、きてください。ここに血のあとがついています」  進の叫び声に、ドヤドヤとおまわりさんがかけつけてくる。巡査部長は血のあとを見て、 「おお、それじゃ、梶原はこの家のなかへ逃《に》げこんだんだな。いったい、これはどういう人のおうちですか」 「ああ、それは鬼頭《きとう》博士《はかせ》のおうちです」  おまわりさんといっしょにかけつけてきた、近所の人が答えた。 「鬼頭博士というと……?」 「有名な医学博士ですよ。なんでも、世界的な大学者だという評判《ひようばん》です」 「ああ、あの鬼頭博士……」  巡査《じゆんさ》部長も鬼頭博士の名まえを知っているらしく、心配そうにそういったが、そのときまたもや進が大声で叫《さけ》んだ。 「あっ、部長さん。木戸のなかで、うめき声が聞こえます!」 「なに、うめき声……?」  みんなが、ギョッとして耳をすますと、なるほど、木戸のなかからきれぎれに、かすかなうめき声が聞こえてくる。 「よし! その木戸をひらいてみろ!」  巡査部長の命令に、おまわりさんのひとりが、こわごわ押《お》してみると、木戸はかんたんに向こうへあいた。  おまわりさんはサッと一歩とびのいて、懐中《かいちゆう》電灯の光をむけたが、見れば木戸のすぐ裏《うら》がわに、男がひとりたおれている。 「あっ、あれは鬼頭博士の助手で、里見一郎《さとみいちろう》という人です」  近所の人が木戸の外から叫んだ。  里見助手はパジャマのうえにガウンをはおって、足にサンダルをひっかけている。そして右のこめかみあたりから、血がタラタラとながれているのだ。きっと、さわぎをきいて裏木戸から外へでようとしたところを、とびこんできた梶原に、ガンと一撃《いちげき》くらったのだろう。 「里見くん、しっかりしたまえ。梶原は……あいつはどこへいった?」  里見助手を抱《だ》き起こして、巡査部長がたずねると、 「あっち……あっち……先生が……先生があぶない……」  それだけいうと、里見助手は気がゆるんだのか、そのままがっくり気をうしなった。 「先生があぶない……? それじゃ、梶原が鬼頭博士を……?」  巡査部長はハッとして、あたりを見まわしていたが、ふと、台所があけっぱなしになっているのをみつけた。  梶原は、あの台所へ逃《に》げこんだのか? 「よし、木村《きむら》くんと山口《やまぐち》くんは、ここで見張《みは》っていろ。ほかの者は、おれといっしょにこい」  探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進は、気絶《きぜつ》している里見助手のうしろから、こめかみのきずを調べていたが、やがて、ふしぎそうな顔をして巡査部長についていく。  台所からなかへはいると、広い廊下《ろうか》がつづいており、その廊下の右のほうから、かすかなあかりがもれている。巡査部長はじめ、みんなはしっかりとピストルをかまえながら、あかりのもれているドアの前までいったが、すると、またもやなかから、かすかなうめき声が聞こえてくるではないか。  巡査部長は足でドアをけってあけると、一歩さがって、キッとピストルをかまえたが、そのとたん、みんなはおもわずあっと目を見はった。  そこは鬼頭博士の実験室なのだろう。壁《かべ》にはがいこつがぶらさがっており、棚《たな》のうえにも二つ三つ、気味の悪い、しゃれこうべ[#「しゃれこうべ」に傍点]がならんでいる。  そして、フラスコや試験管などが、いちめんにひっくりかえった床《ゆか》のうえに、白髪《はくはつ》のパジャマすがたの、年をとった紳士《しんし》が、麻《あさ》なわで手足をしばられ、手ぬぐいで、さるぐつわをはめられてたおれているのだ。 「あっ、あれが鬼頭先生です」  巡査《じゆんさ》部長といっしょにはいってきた、近所の人がまた叫《さけ》んだ。さいわいにも、鬼頭博士は気をうしなってはいなかった。巡査部長の命令で、おまわりさんがいそいでさるぐつわをとり、なわをとくと、博士はよろよろと起きあがって、 「くせものが……、わしをしばって……、あの窓《まど》から……」  それだけいうと、ぐったりと博士は横のいすに腰《こし》をおとした。見れば実験室の窓があいており、そこから外へとびだすと、すぐむこうが表門だが、その門の戸はあけっぱなしになっていた。  そして梶原のすがたはもちろん、もうそのへんには見えなかったのである。    西へ行く三人  つぎの日の新聞でこのことが発表されると、東京じゅうの人びとは、ふるえあがっておどろいた。  さいわい、三芳判事《みよしはんじ》の夫人も娘《むすめ》の由紀子《ゆきこ》も、ひどいめにはあわなかったけれども、大悪人の梶原《かじわら》は、まんまと逃《に》げてしまったのだ。いつまた、どんなことをしでかすかもしれないと思うと、人びとは恐怖《きようふ》をおぼえずにはいられなかった。  それにしても、梶原はなんというしゅうねんぶかい男だろう。かれは芝公園《しばこうえん》のすみにある、戦争ちゅうに掘《ほ》った横穴式《よこあなしき》の防空壕《ぼうくうごう》のあとから三芳家の台所まで、地下道を掘ってしのびこんだのだ。それと知ったときには、人びとはまた、ふるえあがって恐《おそ》れた。  だが、こんどのことで、いちばん手柄《てがら》をたてたのは、なんといっても御子柴進《みこしばすすむ》だ。  もし進が、あんなしかけをしておかなかったら、大悪人の梶原は台所から寝室《しんしつ》までしのびこみ、三芳判事の夫人や由紀子を殺したにちがいない。  そこで進は、警視総監《けいしそうかん》や新日報社《しんにつぽうしや》の社長からたいそうほめられ、また、旅行からかえってきた三芳判事にも、たいへん感謝《かんしや》されたのだが、どういうものか、進はなんとなく暗い顔いろだった。 「ねえ、由紀子さん。この横町に鬼頭《きとう》博士《はかせ》という人がすんでるでしょう」  ある晩《ばん》、進は由紀子にそんなことをたずねた。  進はあれからのちも、三芳家にねとまりして、そこから新日報社へかよっているのだ。 「ええ、このあいだ、あの人が逃げこんだおうちでしょう」 「ああ、そう。あの鬼頭博士という人はどういう人なの」 「どういう人って?」 「ううん、こちらのおじさんと、なにか関係がある人なの?」 「あら、どうして? べつにうちのおとうさんと、なんの関係もないわ。ただ、おうちが近いというだけのことよ」 「とってもえらい学者なんだってね」 「ええ、そう、世界的な大学者だって、いつかおとうさんもいってらしたわ」 「あのおうちには、先生と里見《さとみ》という助手の人と、ふたりきりしかいないの」 「いいえ、ばあやさんがひとりいるわ。でもあのばんは、親類の人が病気だとかで、ひとばん、おひまをもらって、とまりにいったんですって。もし、おうちにいたら、どんなにこわかったろうって、うちのおあきにいっていたそうよ」  おあきというのは三芳家のお手伝いである。 「でも、進さん、どうしてそんなことおたずねになるの? 鬼頭博士がどうかなすって?」 「ううん、べつになんでもないけど……」  進は、いいかげんに、ことばをにごらしていたけれど、心のなかには深いうたがいをいだいているのだ。  里見助手のこめかみの傷《きず》は、そんなに深いものではなかった。二メートルちかい、がんじょうな体をした里見助手が、あれだけの傷で、気絶《きぜつ》するというのはふしぎであった。  また梶原はなんだって、鬼頭博士をしばりあげたり、さるぐつわをはめたり、そんな手数のかかることをやったんだろう。これまた、ガンとピストルの一撃《いちげき》で気絶させたほうが、よっぽどかんたんではないか。  それに大悪人の梶原が、鬼頭博士の家から、ぜんぜんゆくえがわからなくなったのも気がかりだった。  ひょっとすると、梶原はまだあの家にいるのではあるまいか。そして鬼頭博士や里見助手は、わざと梶原にぶんなぐられたり、しばりあげられたようなまねをしていたのではあるまいか。  進には、そんな気がしてならないのだが、でもなぜ、世界的大学者といわれる鬼頭博士が、大悪人の梶原をかくまうのか……。  進には、そこまではわからなかった。  大悪人の梶原が、三芳家から逃《に》げだしてから、きょうまで、もう七日になる。  そののちも、ひきつづいて三芳家にねとまりしている探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進は、新日報社《しんにつぽうしや》からの帰りがけに、鬼頭博士の家の前を通りかかって、おもわずギョッとした。  鬼頭博士の門の前に、自動車が一台とまっていて、いまその自動車にふたりの男が、大きなトランクをはこびこむところだった。  ひとりは運転手らしいが、もうひとりは、助手の里見|一郎《いちろう》で、洋服のうえにレーンコートをきている。 「おっとあぶない。運転手くん、気をつけてくれたまえ。だいじなものがはいっているんだから」 「旦那《だんな》、なにがはいっているのか知りませんが、ずいぶん重うございますね」 「先生のだいじな実験材料がはいっているんだ」  そんなことをいいながらふたりが自動車のなかへ、大トランクをつみこんだところへ、門のなかから鬼頭博士がでてきた。 「里見くん、トランクはだいじょうぶかね」  と、鬼頭博士はそっとあたりを見まわしながら、ひくい声で助手にたずねた。  鬼頭博士はふさふさとした白髪《はくはつ》を、肩《かた》のあたりまでたらして、口ひげとあごひげをはやしている。口ひげもあごひげもまっ白だ。そして黒い洋服のうえには、黒いマントをきている。 「ええ、先生、だいじょうぶですよ。では、ぼくはひと足さきにいって、緑の窓口《まどぐち》できっぷを買っておきますから」 「列車は“瀬戸《せと》”だったね」 「ええ、宇野《うの》まで、まっすぐに行ったほうがよろしいでしょう」 「じゃ、よろしくたのむ。わたしは列車がでるまでには行くから」 「では、東京駅の改札口でお待ちしておりますから……」 「うん、里見くん。くれぐれもトランクに気をつけてな。だいじな実験材料だから」 「ええ、もうそれはだいじょうぶです。じゃ、おさきに……」  里見助手が運転台にのりこむと、すぐ自動車は走りだした。  鬼頭博士はまたそわそわと、あたりをみまわしていたが、やがて門のなかへ消えていった。  さっきから郵便《ゆうびん》ポストのかげにかくれて、そのようすを見ていた進の胸《むね》は、ドキドキしている。  鬼頭博士と里見助手は、こんや、旅行にでかけるらしい。列車は特急“瀬戸”で、行く先は宇野である。宇野というのは岡山県の南のほうにある。瀬戸内海に面した町で、そこから四国の高松《たかまつ》まで、連絡船《れんらくせん》がでることを、進も知っている。  鬼頭博士はなんだって、そんなところへ行くのだろう。いや、いや、それよりも、あの大トランクには、いったい何がはいっているのか……。  博士はひどく気にしていたが、ひょっとすると、あのトランクのなかに、脱走死刑囚《だつそうしけいしゆう》の梶原がはいっているのではあるまいか。  探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進は、なに思ったのか、三芳家へは帰らずに、そこから東京駅へかけつけた。  そして、宇野までのきっぷと特急|券《けん》をかうと、“瀬戸”の発車|時刻《じこく》を待っている。時計《とけい》を見ると、いま十八時だ。“瀬戸”のでるのは十九時二十五分だから、まだ一時間半もあいだがある。  進はそのあいだにハガキを二|枚《まい》かいた。一通は由紀子に、一通は新日報社《しんにつぽうしや》のベテラン記者、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》あてである。  どちらにも、ちょっと旅行をするが、心配はいらないと書いた。  やがて十九時。改札がはじまると、鬼頭博士と里見助手が改札口へあらわれた。トランクはチッキにしたとみえて、里見助手はなにももっていない。  鬼頭博士と里見助手はグリーン車にのったが、探偵小僧の御子柴進は、すぐそのとなりの普通車《ふつうしや》にのりこんだ。  やがて十九時二十五分。“瀬戸”は夜の闇《やみ》をついて、ゴトン、ゴトンと、西へ向かって走りだす。  ああ、それにしても、鬼頭博士と里見助手のあとを追って、特急“瀬戸”にのりこんだ御子柴進のゆくてには、いったいどのような事件《じけん》が待ちかまえているのであろうか。    特急“瀬戸”が、終着駅の宇野《うの》へついたのは、あくる日の午前六時。  鬼頭《きとう》博士《はかせ》と里見《さとみ》助手は、チッキにしたあの大トランクをうけとると、赤帽《あかぼう》にてつだわせて駅まえの休憩所《きゆうけいじよ》へはいっていく。  探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》も、そのあとをつけていくと、だれかを待つような顔をして、休憩所の軒下《のきした》にたたずんだ。  ポケットに手をつっこみ、休憩所にせなかをむけて、口笛をふいているが、そのじつ、全身の神経《しんけい》を、休憩所のなかに向けているのだ。  いがいにも、休憩所では博士を知っているらしく、 「ああ、いらっしゃいまし。しばらくでしたね」  と、あいさつをしているのは番頭らしい。 「ああ、しばらく、またやってきたよ」  と、これは博士の声である。 「大きなトランクですね。こんどは長くおいでですか」 「ああ、先生はね、あの島でたいせつな研究をなさるので、こんどはそうとう長くかかるかもしれない」  そういう声は里見助手だ。  島……? 研究……?  進は、おやと小首をかたむける。  それでは博士はなにかの研究のために、こんなところへやってきたのか。どんな研究か知らないけれど、なぜ東京でやれないのか。どうしてこんな不便なところをえらんだのか。そして島とはどこにあるのだろう。  進の胸《むね》はたかなった。 「ああ、さようで……。それは、それは……」  番頭はいいかげんな返事をしているが、気のせいか進にはなんとなく気味悪そうなひびきがこもっているように思われた。 「番頭、船長はやってこなかったかね」 「いいえ。先生、船長さんにお知らせになっておいたんですか」 「ああ、電報《でんぽう》をうっておいたんだが……」 「もうそろそろくるでしょう。だれかきてくれなきゃ、あのトランクに困《こま》ってしまう」  里見助手がつぶやいているところへ、向こうの町角から船乗りらしいかっこうの男が、のっしのっしとやってきた。  顔じゅうひげにうずまった。仁王《におう》さまのような大男で、マドロス帽《ぼう》に黒い毛糸のジャケツ、そのうえに油にそまった上着をひっかけ、口にはマドロス・パイプをくわえている。  この男のうしろから、背のまがった小男が、ちょこちょこ走りでついてくる。これもやっぱり船乗りらしいが、よわよわしい体で、黒ビロードのベレー帽に、黒ビロードの洋服を、まるで肉にくいいるようにぴったり着ている。  ふたりともあまり人相がよろしくない。ことに小男のほうが、女のようにやさしい顔をしていながら、口のはしにうすら笑いを浮《う》かべているのが、いかにも気味悪く見える。  ふたりは休憩所《きゆうけいじよ》の横までくるとなかをのぞいて、 「やあ、先生、おそくなってすみません」  と、大男のほうがぺこぺこ頭をさげる。 「船長、待たせるじゃないか」  博士はきげんが悪いらしい。 「もうしわけございません。とちゅうでエンジンに故障《こしよう》がおきたもんですから、お、おまえからもあやまってくれ」 「まあ、いい、なんでもいいからはいれ」 「へえ」  と、大男の船長はもういちど頭をさげると、 「小僧《こぞう》、じゃまだ、どけ!」  と、ドンとひとつき、進の肩《かた》をついたがなんとその力のつよいこと。  進はうしろむけに、休憩所のなかへすっとんで、いすにぶつかり、あおむけざまにひっくりかえった。体のしたでペシャッと、いすのこわれる音がして、進はそれきり動かない。 「あっ、あぶない!」  と、かけよったのは番頭と里見助手。 「船長、ひどいことするじゃないか。坊《ぼう》や、しっかりしろ。おや、この坊や、気絶《きぜつ》しているらしいぞ」  里見助手が心配そうにつぶやいたが、進は、ほんとうに気をうしなったのだろうか。  いや、いや、そうではない。  進はわざと気をうしなったようなふうをしているのだ。  大男の船長につきとばされたのをこれさいわいと、気をうしなったようなふうをして、もうすこしようすをさぐろうと思っているのだ。そんなこととは気がつかず、 「番頭さん、これはいけない。すぐ医者を……」  と、里見助手があわてるのを、 「いいですよ、いいですよ、里見さん」  と、そばからなだめるのは小男だ。 「ほっときなさいよ。ただちょっと、うちどころが悪かっただけですよ。ほっといたら、いずれそのうちに気がつきますよ。先生、しばらく」  女のようにやさしい声だが、その声のそこには、ヘビのような冷たさがこもっている。 「アッハッハ、お小姓《こしよう》。おまえはあいかわらず、冷たい男じゃのう」  鬼頭博士はかえってきげんがよい。博士も、そうとう非情《ひじよう》な人らしい。お小姓というのが小男のあだ名らしい。 「番頭、医者を呼《よ》ぶにもおよぶまいが、その長いすにでもねかせてやれ。なあに水でもぶっかければすぐ気がつくさ」  世界的学者といわれる鬼頭博士の、冷たいことばにおどろきながら、しかし、進はこれさいわいと、番頭と里見助手のなすがままにまかせていた。 「ときに船長、おきゃくさんはおとなしくしているかね」 「へえ、それはもう……、あばれたところでオリのなかに……」 「しっ!」  と、博士は叱《しか》りつけると、あわててあたりを見まわしたが、さいわい番頭はおくへ水をとりにいっていなかった。 「めったなことをいうもんじゃない。さいわい、あの小僧《こぞう》は気絶《きぜつ》しているからいいようなものの……、里見、そろそろ出かけようじゃないか。船長のやつは口がかるくていけない。船長」 「はい」 「おまえ、そのリヤカーをかりて、トランクを波止場《はとば》まではこんでくれ」  おくからコップに水をくんできた番頭は、みんなの出発の用意ができているのをみると、 「おや、もうお出かけですか」 「ふむ、そのリヤカーをかりていく。あとからだれかにかえしによこすから。これはリヤカーのかり賃《ちん》だ。船長気をつけてくれよ。そのトランクには、だいじなものがはいっているんだから」  リヤカーにトランクをつんで、みんなが出ていくのを見送って、 「ああ、気味の悪い人たちだ」  と、つぶやきながらふりかえった番頭は、 「おや、坊《ぼう》や、おまえ気がついたのかい」  と、びっくりしたように目を見はる。  進は長いすのうえに起きなおって、いたそうに腰《こし》をなでながら、 「ああ、こわかった。おじさん、あれ、どういう人なの」 「なんだ、おまえ、気をうしなってたんじゃないのか」 「うん、ちょっと気がとおくなってたんだけど。……おじさん、あのなかでいちばんいばってたの、どういう人?」 「ああ、あの人はえらい学者だというんだが、ここから四十キロほど西にある。骸骨島《がいこつじま》という無人島をかいとって、そこへ研究所をたてて、ときどき東京からやってくるんだが、なんの研究をしているのか、みんな気味悪がってねえ」 「どうして? 何が気味悪いの」 「そ、そ、そんなことはいえない。それより坊《ぼう》や、おまえこのへんで見かけない子だが、どこからやってきたんだ」 「ううん、ぼく、これから四国へわたるんだ。番頭さんすみませんでした。ご心配をおかけして……」  進はペコリと番頭に頭をさげると、風のように休憩所《きゆうけいじよ》をとび出した。    トランクのなか  進《すすむ》は休憩所をとびだすと、駅の売店へいって瀬戸内海《せとないかい》の地図をかった。  その地図で調べてみると、骸骨島というのは、宇野《うの》の西方四十キロ、水島灘《みずしまなだ》の沖合《おきあい》はるか、ちょうど本州と四国のあいだに浮《う》かぶ、まわり六キロばかりの小さな島で、その島から四キロほどはなれたところに、白木島《しろきじま》という、これはかなり大きな島がある。  骸骨島——。  その名を聞くさえ気味悪い、瀬戸内海の無人島をかいとって、鬼頭《きとう》博士《はかせ》はいったいなんの研究をしているのだろう。  さっき、鬼頭博士が、船長に、 「おきゃくさんはおとなしくしているか」  と、たずねたとき、船長はなんと答えたか。 「それはもう……。あばれたところでオリのなかに……」  と、いいかけて、博士にしっと叱《しか》られたではないか。  それでは博士のきゃくというのは、オリのなかにとじこめられているのであろうか。  船長が口をすべらしたことばといい、番頭のあの気味悪そうなそぶりといい、さてはまた、気にかかるあの大トランクといい、なにかある、なにか大きな秘密《ひみつ》があるにちがいない……。  そう考えると進は、胸《むね》がおどらずにはいられない。  よし、その秘密をどこまでもつきとめてやろうと、それからまもなく、進がやってきたのは船着き場だ。  むろん、そのころには博士の一行は、どこにもすがたが見えなかったが、そのかわり、進の目にうつったのは、  ┌───────────┐  │白木島ゆき連絡船発着所[#「白木島ゆき連絡船発着所」は太字]│  └───────────┘  と書いた立て札である。 「しめた!」  と、進は心のうちで叫《さけ》んだ。  さっき地図で調べたところによると、白木島と骸骨島《がいこつじま》とは、四キロぐらいしかはなれていない。ひとまずそこへわたったら、なんとかして骸骨島へわたれるかもしれない。  しかも、白木島ゆき連絡船、白竜丸《はくりゆうまる》というのが、いままさに出発しようとするところであった。  進は大いそぎで、きっぷをかうと、白竜丸にとびこんだ。  白竜丸というのは五十トンたらずの小さなランチで、進が乗りこんだときには、ぎっちりきゃくがつまっていた。  やがて出発の合図とともに、白竜丸はポッポッポッと、白いじょうきをあげながら、波をけって出発する。  進はベンチに腰《こし》をおろして、丸窓《まるまど》からぼんやり外をながめていたが、となりにすわっているふたりのひそひそ話が、ふと耳にはいった。 「また、あの気味悪い博士がやってきましたね」 「そうそう、わたしもさっき波止場《はとば》で見かけましたよ。何か大きなトランクを持っていたじゃありませんか」 「ほんとうに。あのトランクにゃ、いったい何がはいっているんでしょう」 「それがね。みょうなんですよ。わたしがそばを通ると、なかから、うめき声のようなものが聞こえて……」 「しっ!」  ふたりの話し声はいっそうひくくなったので、進はもうそれより、聞くことはできなかったが、トランクのなかからうめき声と聞いて、おもわずハッと胸《むね》をおどらせた。  ああ、それじゃ、やっぱりあのトランクに大悪人の梶原《かじわら》がはいっているのではあるまいか。  白竜丸が白木島へついたのは、そろそろ日の暮《く》れかげんのことだった。  新聞記者というものは、いつどんなことが起こるかわからないので、だれでも、ふだんからそうとうお金を持っている。  進は給仕だけれど、先輩《せんぱい》の教えをまもって、いつもかなりのお金を身につけている。  だから、白木島へついてもお金には困《こま》らなかったが、困ったことには白木島には族館がないのだ。そこで、島の人に教えられて、千光寺《せんこうじ》というお寺でとめてもらうことになった。  千光寺のおしょうさんは了然《りようねん》さんといって、六十|歳《さい》ぐらいの人のよさそうな老人だった。  瀬戸内海《せとないかい》のけしきを見るために、島から島へと旅行するのだという進の話をほんきにして、了然さんはいろいろと、珍《めずら》しい話を聞かせてくれたが、 「ねえ、おしょうさん。このとなりにある島は、骸骨島《がいこつじま》というんですってね。どうしてそんな気味の悪い名まえがついたんですか」  と進にたずねられると、 「うん、あれか」  と、おしょうさんはちょっとまゆをひそめて、 「あれはな、昔、あの島から骸骨がぞくぞく掘《ほ》りだされたことがあるので、それでそういう名がついたのじゃ。たぶん、昔あの島は、このへんいったいに住む人たちの、墓場《はかば》になっていたんだろうというんだがな」 「ながく無人島になっていたんですって」 「ふむ。そりゃ、そんな気味の悪い骸骨が掘りだされるような島だから、だれもこわがって住まなんだのじゃ」 「でも、近ごろ東京から、えらい学者がきて、住んでいるというじゃありませんか」 「おまえ、だれからそんなこと聞いた」 「連絡船《れんらくせん》のなかで聞いたんです。そして、いろいろあの島には、気味の悪いことがあるというじゃありませんか」 「いや、いや、そんなこといっちゃいけない。いいかな、坊《ぼう》や、あの島のことはわすれておしまい。あの島には、わしにも、わけのわからぬ、えたいのしれぬことがある。おまえ、けっしてあの島へ行ってみたいなどと思うんじゃないぞ」  しかし、これではことばと反対に、進の好奇心《こうきしん》をあおっているようなものである。  そのあくる日、進は浜《はま》べへ出て、なんとかして、向こうに見える骸骨島《がいこつじま》へわたるくふうはないものかと、海のうえをにらんでいたが、するとポンと肩《かた》をたたいたのは、釣《つ》り道具をもった、漁師らしいおじいさんである。おじいさんはニコニコしながら、 「東京からきた坊っちゃんとは、あんたのことかな。何をそんなに考えてるんじゃね」 「ああ、おじいさん。ぼく、たいくつだから、海のうえへ出てみたいと思ってたんですよ。おじいさん、釣りにいくなら、連れてってください」 「アッハッハ。そうか、そうか、それじゃいっしょに行こう。わしも連れがあったほうが楽しみじゃ」  おじいさんはじぶんの舟に、進をのせて漕《こ》ぎ出したが、骸骨島がだんだん近くなってくるにつれて、進の胸《むね》はたかなった。  骸骨島……。  ああ、それはなんといういやな島だろう。島には、一本の木もはえてなく、ゴツゴツとしたはげ山が、まるで白骨《はつこつ》のような白い地肌《じはだ》をさらしている。 「おじいさん、あれが骸骨島なの?」  と、進がたずねると、 「しっ、そんなことをいっちゃいけない。な、おねがいだからあの島のことはいうてくれるな。わしは名まえを聞いてもゾッとする」  おじいさんは一生けんめい、骸骨島のそばを漕ぎぬけようとしていたが、そのときだ。 「ウォーッ!」  と、いうものすごい叫《さけ》び声が聞こえてきたので、進はギョッとして、そのほうへふりかえったが、そのとたん、全身の血もこおるばかりの恐《おそ》ろしさをかんじたのである。  すぐ目の前に横たわる、骸骨島の絶壁《ぜつぺき》に、きみょうな動物がつっ立って、こちらをにらんで叫んでいるのだ。  人か、獣《けもの》か……。  それはまるでゴリラのような動物だった。 「あっ、おじいさん、おじいさん。あれは、なんなの? ゴリラみたいなやつが、岩のうえに立ってるよ」 「見ちゃいけない、見るとたたりがあるよ」 「たたりがあるってどういうの?」 「なにか悪いことが起こるということだ。さあ、なんでもいいから、はやくここを漕《こ》ぎぬけよう」  おじいさんは、必死になって舟《ふね》を漕ぐ。  舟はみるみるうちに絶壁から遠くはなれていったが、進がふりかえると、人か魔《ま》か、ゴリラのような怪物《かいぶつ》は、まるで舟のあとを追うように絶壁から絶壁へとつたわっていたが、やがてすがたは見えなくなった。 「ああ、こわかった。おじいさん、あれ、いったいなんなの。サルなの? 人間なの?」 「わしにもなんだかわからん。しかし坊《ぼう》や、あの島のことはあんまりいうんじゃないよ。あの島には悪いやつが住んでいるんだからな」 「悪いやつって、おじいさん。あの島にはえらい学者が住んでいるっていうじゃないの」 「学者でもなんでも、悪いやつは悪いやつだ。船長だのお小姓《こしよう》だのと、悪いやつばかり部下にしている人間に、ろくなやつがあるはずがない」 「おじいさん、船長だの、お小姓だのって、そんな悪いやつなの?」 「ああ、悪いやつだとも、まえに海賊《かいぞく》みたいなことをしていたやつだ」  世界的大学者ともあろう鬼頭《きとう》博士《はかせ》が、なんだってそんな悪い人間を部下にしているのだろう。そんな人なら大悪人の梶原《かじわら》をやっぱりかくまっているのではなかろうかと、進《すすむ》はいよいよ胸《むね》をおどらせた。 「だから、坊や、あの島のことは、あんまりかまわないほうがいいよ。いまにきっと、あの島には何かよくないことが起こるにちがいないと、みんないってるんだからな」 「うん、うん。おじいさん、あんな気味の悪い怪物《かいぶつ》のいる島だもの、ぼく、なんにもかまやあしないよ」  口でははっきりそういったものの、進は心のなかで、どうしても、骸骨島《がいこつじま》へわたっていって、鬼頭博士の秘密《ひみつ》をさぐってやろうと考えた。  その日は一日、おじいさんが釣《つ》りをするのを見てすごしたが、日ぐれごろ白木島《しろきじま》へ帰ってくると、子どもがおおぜい波うちぎわで、いかだを浮《う》かべてあそんでいる。 「あっ、おじいさん。あの子たち、あんなにいかだをこさえてどうするんですか」 「ああ、あれか。あれはちかく竜神《りゆうじん》さまのおまつりがあるんでな。そのときには島の子どもらが、みんないかだにのって、沖《おき》のほうまで竜神さまのおみこしのおともをするんだ。だから、いまからああして、けいこをしているんだよ」 「あんないかだで、沖のほうまで、でられるんですか」 「でられるとも。一キロや二キロなら、わけはないさ」  それを聞くと、進は心のなかでしめたと叫《さけ》んだ。  島の子どもにのれるのなら、じぶんにだってのれないはずはない。  その晩《ばん》、千光寺《せんこうじ》へ帰った進は、つかれたから早くねますと、おしょうの了然さんにことわって、晩《ばん》ご飯《はん》がすむとすぐに、じぶんの部屋《へや》にひきさがった。  そして、ねどこへはいってねたふりをしていたが、十時ごろ、了然さんがねるのを待って、こっそりねどこをぬけだした。  すばやく身じたくをととのえると、台所へ行って、大きなにぎりめしを五つ六つこしらえた。いざというときの用意である。  それから寺をぬけだして、浜《はま》べへきてみると、夕がた見たいかだがたくさんつないである。  そのなかから、一番じょうぶそうなのをえらんでとびのると、つないであった綱《つな》をときはなし、そなえつけのかい[#「かい」に傍点]をとりあげる。いかだはすぐに岸をはなれて、ゆらりゆらりと波にのってながれだした。  さいわいその夜は月夜だったので、あかりの心配はいらなかった。海のうえはギラギラと、銀をちりばめたようにかがやいている。その海の向こうにくっきりと、骸骨島《がいこつじま》が浮かんでいるのだ。  進はなれない手つきで、かいをあやつっていたが、そのうちに、潮《しお》のながれが、白木島から骸骨島のほうへ向かっていることに気がついた。そうわかれば、なにもあせってかいを漕《こ》ぐことはない。潮のながれにまかせておけば、いかだはしぜんに骸骨島へながれるのだ。  進はかいをひきあげると、いかだのうえに、ごろりとあおむけにねそべった。そして、しばらく月をながめていたが、ああなんというだいたんさ、いつのまにか、うつらうつらと眠《ねむ》ってしまった。  それからどれくらいたったのか、いかだがドシンとなにかにのりあげたので、進《すすむ》はハッと目をさました。見ると、そこは小さな入り江《え》で、向こうに見える桟橋《さんばし》にランチが一そうつないである。  いったい、ここはどこだろう。しゅびよく骸骨島へながれついたのだろうかと、進が目をこすって、キョロキョロあたりを見まわしているとき、入り江のおくのはるかかなたから、ひと声たかく聞こえてきたのは、 「ウォーッ」  と、いう恐《おそ》ろしい叫《さけ》び声だ。それを聞くと進は、おもわずハッとした。  その叫び声こそは、きょうひるま聞いた、あの怪獣《かいじゆう》の叫びではないか。してみると、ここはやっぱり、骸骨島なのだ。そして向こうに見えるランチは、鬼頭博士と里見《さとみ》助手が、船長やお小姓《こしよう》といっしょにのってきた船にちがいない。  腕時計《うでどけい》を見ると十二時半、白木島から骸骨島まで、潮《しお》にのってながれるのに、二時間あまりかかったらしい。月はもうよほどかたむいていた。  進はいかだから、波うちぎわへとびうつると、ひと目につかぬ岩かげまで、いかだをひっぱっていって、そこにつないだ。  それから地上をはうようにして、桟橋のところまできてみると、そこから砂浜《すなはま》をこえて、その向こうに坂道がつづいている。進がその坂道へさしかかると、またしても、二声、三声、つづけざまに、 「ウォーッ! ウォーッ!」  と、ものすごい叫び声が聞こえてきた。  まるで、腹《はら》の底までしみとおるような叫び声で、島ぜんたいが、その叫びに恐れおののいているようだった。  進は心をおどらせて、坂道をかけのぼって、岡《おか》の上までやってきたが、そのとたん、おもわずあっと叫《さけ》んで立ちすくんだ。  進が立っている岡から、浅い谷一つへだてた山の中腹《ちゆうふく》に、まるで西洋のお城《しろ》のような家がたっている。物見台《ものみだい》のような高い塔《とう》。あつい石の塀《へい》。まるい屋根や、三角の屋根がかさなりあって、まるで、おとぎ話の絵のようだ。  おもいがけないところで、おもいがけない建物にぶつかったので、進はしばらく、あっけにとられて立ちすくんでいたが、そのとき、またもや聞こえてきたのは、 「ウォーッ! ウォーッ」  と、たけりくるう怪獣の声。しかも、その声はまぎれもなく、あのきみょうなお城のなかから聞こえてくるのだ。進はそれを聞くと、ぐずぐずしてはいなかった。  人目につかないように、ものかげから、ものかげへとつたわりながら、谷をこえ、坂をのぼると、うまくお城の塀の外までしのびよった。    黒衣の人びと  怪《あや》しい叫び声は、ますますものすごく聞こえてくる。  それはどうやら、塀のなかにそびえている、右手の塔のてっぺんから聞こえてくるらしいのだが、その叫び声のものすごさから考えると、怪獣《かいじゆう》はよほど、なにか怒《いか》りくるっているらしい。  進《すすむ》はなんとかして、なかへしのびこむくふうはないものかと、塀《へい》のぐるりをまわってみたが、アーチ型の大きな門には、どっしりとした木の扉《とびら》がしまっている。  がっかりしながら、なおも塀をつたわっていくと、やがて、ひとところ、ツタのつるが、塀一面に、網《あみ》の目のようにはっているのを発見した。 「しめた!」  進が、ためしに、つるをひっぱってみると、そのじょうぶなことといったら、はりがねのようである。つるに手をかけると、スルスルスルと、まるでサルのように塀をのぼりはじめた。身のかるい進は、こういうことが、なによりも得意なのだ。  やがて、塀のてっぺんまできて、ひょいとなかを見おろした進は、おもわずギョッとして息をのんだ。  怪獣の叫びはいつのまにやらやんでいたが、その叫びが聞こえていた右手の塔のふもとから、いましも、たいまつをともした、黒いかげがゆっくりでてきた。  そいつは、頭からすっぽりと、三角形の黒いずきんをかぶっていて、からだにも、だぶだぶの黒い服をきている。ずきんには目のところだけ、二つの穴《あな》があいていて、だぶだぶ服の胸《むね》に、なにやらマークがついているが、遠くのこととて、そのもようまでは見えなかった。  さて、たいまつをともした男のうしろから、おなじような服をきた四人の男がでてきたが、見るとかれらは、みこしのように、横に細長いオリをかついでいて、オリのなかにはだれかが、あおむけにねているらしい。  この四人のうしろから、また、おなじような服をきた男が、たいまつをかかげて出てきたが、その男のからだつきから、あの小男であることがはっきりとわかった。  そうだ。その男こそ、ヘビのように冷たい、お小姓《こしよう》という男にちがいない。そうすると、先頭に立っているたいまつの男は、船長ではあるまいか。  さて、右手の塔からでてきた一行は、しずしずとして、中庭を横ぎると、正面に見える大きな建物のなかへはいっていった。  進は、このふしぎな光景に、まるで夢《ゆめ》でも見ているような気持ちだったが、一行のすがたが見えなくなると、すぐ、塀の内がわへおりていった。塀の内がわにも、ツタが一面に生えているのだった。  進は庭へおり立つと、すばやくそれをつっきって、いま六人の男がはいっていった、建物の入り口までしのびよったが、うまいぐあいに、ドアはまだあいたままだった。  進はあたりに気をくばりながら、ひらりとドアのなかへすべりこんだ。  ドアのなかはまっ暗だが、耳をすますと、遠くのほうから、ガヤガヤ話し声が聞こえてくる。その声のようすからして、そうとうおおぜいの人がいるらしい。  無人島とまでいわれるこの島に、これほどおおぜいの人間がいるというのはどういうわけか。いよいよもって怪《あや》しいのは鬼頭《きとう》博士《はかせ》だ。博士はこんな島で、いったい何をしているのだろう。  それはさておき、声をたよりにまっ暗な廊下《ろうか》をつたわって行くと、まもなく、向こうのほうにあかりがもれている。進はネコのように、足音もたてず、あかりのもれているところまでしのんでくると、そっとなかをのぞいたが、そのとたん心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》がとまるほどおどろいた。  そこは十メートル四方もあるかと思われる大広間で、天井《てんじよう》には五つ六つのランプが、あかあかとつるしてある。そのしたで、三十人ほどの男が、あるものは立ち、あるものはいすに腰《こし》をおろして、ガヤガヤと話をしている。どの男も、みんなさっき見た、六人とおなじように黒いずきんに黒いだぶだぶ服をすっぽりきている。  しかも、さっきはよく見えなかった胸《むね》のもようは、しゃれこうべのしたに骨《ほね》を十文字にくんだマークではないか。  進は、この気味悪い光景にしばらくわれをわすれて見とれていたが、やがてハッと気をとりなおすと、見つけられては一大事と、ドアの外の暗闇《くらやみ》にうずくまって、きっと聞き耳をたてていたが、そのとき、なかから聞こえてきたのは、 「なあ、しょくん。われわれにはたしかにボスがいるんだ。われわれの親分も、われわれにさしずができる、偉大《いだい》なボスをもとめている。それでなければ、われわれがめいめいかってに、どんなに悪事をはたらいたところで、とても大きな仕事はできないからな」 「そうだ、そうだ。そのとおりだ。小さい悪事なら、このおれだって、だれにもひけをとらないが、世間をあっといわせるような大仕事となると、とてもひとりずつの力ではいけない。われわれの力をあつめて、ひきずってくれる。えらいボスが必要なんだ。ところで、そのボスをこんや鬼頭先生が、われわれのために作ってくださろうというんだ。とにかく、待ちどおしいじゃないか」  進はそれを聞くと、ゾッとした。  ここにいる三十人ばかりの男は、みんなそれぞれ悪人なのだ。しかし、ひとりずつでは大きな仕事ができないから、じぶんたちを指揮《しき》してくれる人物をもとめている。しかも、その人物を鬼頭博士が作ろうというのだが、いったい、人間を作ろうというのは、どういうことか……。 「しかし、そんなことがうまくいくかな」  と、そのとき、部屋《へや》のなかから、また、べつの声が聞こえてきた。 「人間の脳《のう》をえぐりとって、類人猿《るいじんえん》の頭のなかにうえつける。……そんなことが、ほんとうにできるだろうか」  進は、またおどろいた。人間の脳を、類人猿の頭にうえつける……? それはいったいどういうことか。 「そこが先生のえらいところだ。先生ときたら、世界でも有名なえらい学者だからな。その学者がながいことかかって研究した結果だもの、うまくいくんじゃないかと思うよ」 「もし、それがうまくいくと、すばらしいわれわれのボスができるわけだな」 「そうとも。その人は類人猿のつよい力と、それから悪事の天才ともいうべき、すぐれた頭をもった人になるんだからね」 「ところで、類人猿の頭にうえつける脳の持ちぬしだが、それは、いったいどういう人だね」 「なんだ、きみはまだそれを知らないのか。その人は梶原一彦《かじわらかずひこ》といって、悪事にかけては、このうえもない大天才だよ」  梶原一彦と聞いて、進はまたハッとした。 「その人は、いまのままでも、われわれのボスになるには十分なほど、悪知恵《わるぢえ》にたけた人だそうだが、ただすこしからだがよわいのでね。それで、その人の脳をとって、ゴリラの頭にうつすんだ。これが、うまく成功すると、頭脳《ずのう》もからだもすばらしい、悪事の天才ができあがるというわけだ」  あまりに奇怪《きつかい》な話に進は、悪い夢《ゆめ》にうなされるような気持ちだったが、そのとき、またしても、階上から、 「ウォーッ! ウォーッ!」  と、たけりくるう怪獣《かいじゆう》の声が聞こえてきた。それを聞いて、部屋《へや》のなかから五、六人がどやどやと、廊下《ろうか》へとびだしてきた。 「しまった!」  と、口のなかで叫《さけ》んだ進は、ここでつかまっては一大事と、身をひるがえして暗い廊下を、あてもなく逃《に》げだしたが、そのとき、ゆくてからいそぎ足に近づいてきたのは、たいまつの光である。 「しまった!」  と、ふたたび口のなかで叫んだ御子柴進《みこしばすすむ》。  うしろからはドヤドヤと、入りみだれた足音が追っかけてくる。前からはたいまつの光が近づいてくる。しかも、かくれる場所はどこにもない。  進は、前にもあとにも進めなくなってしまった。  進は、暗がりのなかで、追いつめられたけだもののように、キョロキョロあたりを見まわしていたが、何を思ったのか、いきなりからだをななめにたおした。  さいわい、その廊下は、はばがせまく、約一メートル半ばかり。進が両手と両足をのばしてふんばると廊下に橋をかけるように、たっぷり身長がとどくのだ。  進はかたほうの壁《かべ》に足をふんばり、全身をうつむけにたおして、反対がわの壁に両手をつっぱると、小きざみに、すこしずつ上へのぼっていく。  進は身がかるく、こういうことにかけては、軽業師《かるわざし》みたいなのだ。  一メートル、二メートル、三メートル……およそ四メートルちかくも、進が、壁をつたわってのぼったところへ、前からきたたいまつと、あとから追っかけてきた覆面《ふくめん》の男たちが、進の橋のしたでばったり出あった。 「どうした、どうした、お小姓《こしよう》さん。あの叫《さけ》び声はどうしたんだ」  どうやらうしろから追っかけてきた覆面の男たちも、前からやってきたたいまつの男も、進がそこにいるとは気がつかなかったらしい。 「ああ、きみたち、はやく来てくれたまえ。ゴリラがあばれだしたんだ」  そういう声はたしかにお小姓、たいまつを持っているすがたもあの小男である。 「なに、ゴリラがあばれだした。それじゃ麻酔《ますい》がきかなかったのか」 「ふむ、ふつうの二倍も注射《ちゆうしや》しておいたんだが……、とにかく、はやくきてくれたまえ」 「よし!」  お小姓のあとについて、覆面の男が五、六人ひとかたまりになって走っていく。  進はまだあとから、だれか来るかとようすを見ていたが、さいわいだれも来るようすもないので、すばやく壁をすべりおりると、たいまつの光を追っていく。  そのあいだも、怒《いか》りにくるった怪獣《かいじゆう》のものすごい叫び声が、たえまなく聞こえ、そのあいまには、物をぶつける音、たおす音、うろたえさわぐ人びとの、悲鳴や叫び声がいりまじって、お城《しろ》のなかはたいへんなさわぎだ。  たいまつの光は城内《じようない》の、後部にある階段《かいだん》をのぼっていく。進は気づかれぬよう、適当《てきとう》の距離《きより》をおいてつけていく。さいわい、どこもかしこもまっ暗なので、すがたを見られる心配はなかった。  たいまつの一行は階段をのぼると、正面に見える観音《かんのん》びらきのドアのなかへ、ドヤドヤとなだれこんだが、すると、さわぎはいよいよ大きくなった。 「それ、はやくクサリでしばってしまえ!」 「組みつかれると、首ねっこをへし折られるぞ!」  そんな叫び声にまじって、 「ウォーッ! ウォーッ!」  と、怒りにくるった怪獣の声と、ドスンバタンと、大あばれする物音が、ドアのなかからもれてくる。  そのうちに、ドスンとだれかがたおれたような物音がしたかと思うと、 「しめた! はやくクサリでぐるぐる巻《ま》きにしてしまえ!」  と、そういう声は鬼頭博士だ。  つづいて、ガチャガチャとクサリの音、人びとのかけずりまわる足音が、ひとしきりつづいたかと思うと、あとはきゅうに静かになった。  暗がりのなかにうずくまった進の心臓《しんぞう》は、早鐘《はやがね》をつくようにおどっている。  さっき階下で聞いたふしぎなことば……。  大悪人梶原一彦の脳《のう》をとって、ゴリラの頭にうえつける……。  そして、頭脳《ずのう》もからだもすばらしい、悪事の天才をつくりあげる……? そんなことがはたしてできることだろうか?  進はこっそりと、暗がりのなかからはいだして、ドアのそばへはいよった。そして鍵穴《かぎあな》に目をあてると、そっとなかをのぞきこんだが、とたんに、あっと息をのんだ。  まるで大嵐《おおあらし》に見まわれたように、取りちらかした部屋《へや》の中央、ちょうど鍵穴の正面の柱に、太い鉄のクサリでがんじがらめに、しばりつけられているのは巨大《きよだい》な怪獣《かいじゆう》、ゴリラである。ゴリラは目をいからせ、きばを鳴らし、フーフーと、あらい息づかいをしながらも、おりおり、まだ、 「ウォーッ! ウォーッ!」  と、怒《いか》りにみちた叫《さけ》び声をあげている。  ゴリラのまわりには黒ずくめの服に覆面《ふくめん》の男が、十人ばかり立っているが、そのほかに、白い手術着《しゆじゆつぎ》に手術帽《しゆじゆつぼう》をかぶった男がふたりまじっていた。いうまでもなく鬼頭《きとう》博士《はかせ》と里見《さとみ》助手だ。  そして、その向こうには、大きな手術台が二台ならんでいるが、そのうちの一台のうえに寝《ね》ころんでいるのは、たしかに大悪人の梶原だ。梶原は死んでいるのか、眠《ねむ》っているのか、あのさわぎにもかかわらず、人形のように身動きもしない。 「ああ、骨《ほね》を折らせやがった」  と、そうつぶやいたのは、世界的大学者といわれる鬼頭博士だ。小男のほうをふりかえって、 「これというのもお小姓《こしよう》、おまえがいけないんだぞ。おれがあんなにいっておいたのに、注射《ちゆうしや》の量をかげんするからだ。おかげで十六号は、ゴリラに首ねっこを折られて死んだじゃないか」  どうやら黒ずくめの服に覆面の男たちは、番号で呼《よ》ばれることになっているらしい。そして、そのひとりがいまのさわぎで、死んだらしいのだ。そういえば、手術台のしたから、二本の足がのぞいている。 「すみません。これからは気をつけます」  小男はペコペコ頭をさげている。 「これから気をつけたってはじまるもんか。十六号は生きかえりゃしないぞ」  そうどなりつけたのは大男の船長だ。 「まあいい、まあいい。出来たことはしかたがない。十六号はひそかにほうむっておいてやれ。それより、このゴリラを眠らせることがだいいちだ。おい、里見くん」 「は、はい。……」 「なんだ、里見くん。きみはふるえているのかい、アッハッハ。そんな気の弱いことでどうするんだ。これから、世界的な大実験をしようというのに。さあ、はやく、このゴリラに注射をしたまえ」 「は、はい。しょ、しょうちしました」  そろいもそろった悪人たちのなかで、この里見助手だけは、やさしい心を持っているらしい。  かすかにからだをふるわせながら、太い注射器《ちゆうしやき》をとりだすと、ゴリラの腕《うで》に注射をする。  ゴリラはまた、ものすごくたけりくるったが、太いクサリでがんじがらめにしばられているので、身うごきもできないのだ。  ゴリラはしばらく歯をむき出し、身をもみにもんで怒《いか》っていたが、しだいにその勢《いきお》いがよわまっていくと、やがてぐったり首をうなだれた。どうやら眠《ねむ》りにおちたらしい。  進《すすむ》は手に汗《あせ》にぎり、かたずをのんでこのようすを見ていたが、そのときだ。だしぬけに頭のうえから、 「この小僧《こぞう》!」  と、われがねのような声が降《ふ》ってきたかと思うと、うしろからむんずと首ねっこをつかまれた。    博士《はかせ》の訊問《じんもん》 「しまった!」  と、叫《さけ》んだがもうおそい。気がつくと進のうしろには、いつのまにやってきたのか、黒ずくめの服に三角ずきんの男がふたり、ずきんの穴《あな》から目をひからせて立っているのだ。 「この小僧、どこからやってきやがった」 「先生、先生。へんな小僧がしのびこんでおりますぜ」  ふたりの男の叫び声に、なかからドアをひらいたのは、大男の船長である。ずきんの穴から、進の顔を見ると、 「やあ、こいつは宇野《うの》の休憩所《きゆうけいじよ》にいた小僧じゃないか。さてはこいつ、おれたちのあとをつけてきやがったな。おのれ、こうしてくれる」  と、ばかりに、船長はグローブのような大きな手で、進の首をしめようとする。進の背《せ》すじには、さっと恐怖《きようふ》の戦慄《せんりつ》がはしったが、いいぐあいに、鬼頭《きとう》博士《はかせ》がそれをおしとめた。 「船長、船長、殺すのはよせ。それより、その小僧に聞いてみなければならんことがある。小僧、こっちへ来い」 「は、は、はい……」  進はもうだめだとかんねんした。この悪人たちは、人殺しなんかなんとも思っていないのだ。じぶんはきっとここで殺されてしまうだろう。  鬼頭博士はすごい目で、ギロリと進の顔をにらむと、 「おお、なるほど、こいつはたしかに宇野の休憩所へとびこんできた小僧だな。しかし、待てよ。それよりまえにおれはどっかでこの小僧を見たことがある。里見《さとみ》くん、きみは思い出さないかね」 「は、は、はい」  里見助手はふしぎそうに進の顔を見ていたが、きゅうにハッとしたように、 「あっ、き、きみは東京の新聞社の小僧《こぞう》……? あ、そうだ、そうだ。そこにいる梶原《かじわら》が、おれんところへとびこんできたとき、警官《けいかん》といっしょにやってきた小僧だな」  鬼頭博士はあきれたように、進の顔を見ていたが、きゅうにサッと怒《いか》りの色をあらわすと、 「やい、小僧。きさま、新聞社の命令で、おれたちをつけてきたのか」  ああ、これが世界的大学者といわれる人の、つかうことばであろうか。 「い、い、いいえ。そ、そうじゃありません。ぼくが勝手に、じぶんの考えでつけたんです」 「じぶんの考えで……? それじゃ、おまえは梶原が、おれのところにかくれているのを知っていたのか」 「いいえ、はっきり知っていたわけじゃありませんが、そうじゃないかと思ったんです」 「それで、おまえそのことを、新聞社に報告《ほうこく》したのか」 「いいえ、まだ。……だって、たったいままで梶原がいっしょかどうかはっきりわからなかったんですもの」 「ふうん、それで、おまえどうしてこの島へやってきた」 「ぼく、宇野《うの》から連絡船《れんらくせん》で、となりの島までわたったんです。それから今夜、いかだでこの島へながれついたんです」 「ふうん。それじゃだれもおまえがこの島に、きていることは知らないんだな」 「はい」  そう答えてから進は、おもわずしまったと心のなかで叫《さけ》んだ。そのとたん、鬼頭博士の目のなかに、恐《おそ》ろしい殺気がほとばしるのを見たからだ。 「先生、先生。それだけ聞けばもう用はないでしょう。ひと思いに殺してしまいましょうか」  大男の船長は、またグローブのような手で、進の首をひっつかむ。 「まあ、待て。しめ殺すのはかわいそうだ。それより穴《あな》ぐらへほうりこんで、生きるか死ぬか、運を天にまかせてやれ」 「そう、そう、それがいいですよ。ただしあの穴ぐらへほうりこまれちゃ、万にひとつもたすかる見込みはありませんがね。イッヒッヒヒ」  気味の悪い声で笑ったのは、あのヘビのように残忍《ざんにん》な、小男のお小姓《こしよう》である。 「お小姓。きさま、よけいなことをいうな」 「へえへえ。やい、小僧、こっちへ来い」 「ああ、先生、かんにんしてください。ぼくだれにもこんなこと、しゃべりません。いのちだけはたすけてください」  進は必死となって抵抗《ていこう》する。しかし、小男のお小姓と、大男の船長に抱《だ》きすくめられては、それこそ、ワシにつかまれたスズメもおなじこと。お小姓と船長は泣き叫ぶ進を、部屋《へや》の片《かた》すみまでひきずっていくと、床《ゆか》のあげぶたをひきあげた。  と、見れば、そのあげぶたのしたには、まっ暗なたて穴《あな》があいていて、底のほうから冷たい風がふきあげてくる。 「あっ、たすけてえ! 人殺し——!」  進は、必死になってもがいている。見るに見かねてうしろから、かけよったのは里見助手だ。 「あっ、ちょ、ちょっと待ってください。そんなひどいことをしなくても……。先生、先生、おねがいです。どうかこの少年をたすけてやってください」 「里見くん」  鬼頭博士は怒《いか》りのために、まっ赤《か》な顔をしている。 「きさまはこのおれを裏切《うらぎ》る気か。小さいときから育ててやった、このおれの恩《おん》をわすれて裏切る気か」 「先生、すみません。しかし、なんぼなんでも、このような小さい子どもを……」 「船長、お小姓《こしよう》、いいからその小僧《こぞう》を、穴ぐらのなかへたたきこめ!」  ああ、なんという残酷《ざんこく》なことばだろう。なんという、鬼《おに》のような博士だろう。この人には、血も涙《なみだ》もないらしい。 「へえ、ようがす。やい、小僧、かくごをしろ!」  大男の船長に、力まかせに背《せ》なかをつかれ、 「あああ!」  と、恐《おそ》ろしい悲鳴をのこして、進はまっ暗な穴ぐらのなかへ落ちこんだ。  ああ、進はそのまま穴ぐらの底へ落ちこんで、木《こ》っ端《ぱ》みじんとくだけただろうか。いいや、しょくん、安心したまえ。そうではなかったのだ。  その穴ぐらのなかには、ななめにすべり台のようなものがついていて、そのうえを、進はどこまでもどこまでも、すべり落ちていくのである。ああ落ちてしまった。この穴ぐらへ落ちこんでは、どうせいのちはたすからない。  里見助手は身ぶるいしながら、穴ぐらのなかをのぞいていたが、そのときだ。うしろから、やにわにお小姓が背なかをついたからたまらない。 「あっ!」  と、叫《さけ》んで里見助手も穴ぐらのなかへ落ちこんでいく。  これには鬼頭博士もおどろいて、いそいでそばへかけよった。 「先生いいですよ。あんななさけ心をもったやつをのこしておいちゃ、いつか先生の身の破滅《はめつ》になりまさあ。手術《しゆじゆつ》の助手なら、わたしと船長でつとまりますからね。イッヒッヒッヒ」  ああ、なんという冷酷《れいこく》さ。ヘビのような男とは、このお小姓のことをいうのだろう。    まっ暗な闇《やみ》のすべり台を、どこまでもどこまでもすべり落ちていくうちに、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》は、フウッと気がとおくなって、それきり、何がなにやらわからなくなってしまった。  それからどのくらいたったのか……。  まっ暗闇《くらやみ》のなかに身をよこたえて、夢《ゆめ》うつつのさかいにさまよっていた進は、だしぬけに、 「きみ、きみ、しっかりしたまえ。気をたしかにもちたまえ」  と、やさしい声でゆすぶられて、ハッとわれにたちかえった。  進はいそいで床《ゆか》のうえに起きなおると、キョロキョロあたりを見まわしたが、なにもわからぬ闇のなか、むろん、あいての顔もかたちもわからない。 「だ、だ、だれですか。あなたは……?」  進の声はふるえている。 「ぼくだよ。鬼頭《きとう》博士《はかせ》の助手の里見《さとみ》というものだ」  進はそれをきくと、ギョッとうしろへそりかえる。さっきのあの恐《おそ》ろしい光景がまざまざと頭のなかによみがえってきたからだ。  そのけはいをさっしたのか、里見助手は早口で、 「きみ、きみ、なにもこわがることはない。ぼくもきみとおなじように、悪人たちの手にかかって、この穴《あな》ぐらへたたきこまれたのだ」  と、そういいながら、闇のなかを、進のほうへにじりよってくる。  進は半信半疑《はんしんはんぎ》で、なおもうしろへ身をひきながら、 「そ、それはほんとうですか」 「うむ。きみをかばおうとしたのが、悪人たちの気にいらなかったんだ」 「すみません。それじゃぼくのために……」 「いや、きみのためばかりじゃない。まえからぼくは先生に、あんな悪人たちといっしょに仕事をするのはよしなさいと忠告《ちゆうこく》していたんだ。それがあいつらの気にさわっていたんだね」 「鬼頭先生のようなえらい学者が、なんだって、あんな悪者の仲間になったんです」 「ああ、それをいま話してあげよう。だけどそのまえに、きみの名まえはなんというの」 「ぼく、御子柴進というんです」 「新聞社は、どこの新聞社?」 「新日報社《しんにつぽうしや》です」 「ああ、そう。ときに御子柴くん、きみ、マッチなんか持ってやあしないだろうね」 「ぼく、いつも懐中《かいちゆう》電灯をもっているんですけれど」  進は、いついかなるばあいでも、うわぎのポケットから、万年筆がたの懐中電灯をはなしたことがない。  進がいそいでポケットに手をやると、天のたすけか、懐中電灯はクリップでポケットのふちにひっかかっていた。こころみにボタンを押《お》すと、パッとあかるい円光のなかに、里見助手の顔が浮《う》きあがる。 「ああ、ありがたい。あかりがあるのとないのとでは、気持ちのうえでずいぶんちがう。ちょっとその懐中電灯をこっちへかしたまえ」  進の手から懐中電灯をうけとった里見助手は、ぐるりとあたりを照らしたが、そのとたん、進はおもわず、 「キャッ!」  と、叫《さけ》んで里見助手にしがみついた。  進はけっして、臆病者《おくびようもの》ではない。しかし、どんなに勇かんな少年でも、そのとき、進が見たような光景をだしぬけに見せつけられたら、きっと肝《きも》をつぶすにちがいない。進と里見助手のまわりには、気味の悪い骸骨《がいこつ》が、山のようにつんであるのだ。  いや、いや、進と里見助手のふたりは、おりかさなってたおれている、たくさんの骸骨の前にすわって話していたのだ。 「里見さん、里見さん。こ、これはいったいどうしたんですか。ここにある骸骨は、いったいどういう人たちですか」  里見助手もあまりものすごいあたりの光景に、しばらく息をのんで目を見はっていたが、やがてひたいに吹《ふ》きだした汗《あせ》をふくと、 「いや、いや、御子柴くん、これはなにも心配なことはないんだ。この島は昔、まわりの島々の墓場《はかば》になっていたということだ。この島には水もすくなく、土地も悪くて住めないので、まわりの島で人が死ぬと、この島へもってきてうずめたんだね。だから、ここにある骸骨はみんな遠い昔に死んだ人たちなんだ」 「し、しかし、里見さん」  と、進はまだふるえ声で、 「こ、ここにある骸骨には、頭をぶちわられたあとがありますよ」  里見助手も、その骸骨に目をとめると、 「ああ、それはきっとうえにいる、悪者どもに殺された人たちにちがいない。あいつらは人を殺して金をうばうと、死体をはだかにしてこの穴《あな》ぐらへほうりこむのだ。そうすると、いつか死体がくさって骨になり、ほかの骸骨と見わけがつかなくなってしまうんだ」  進はそれを聞くと、あまりの恐《おそ》ろしさにふるえあがった。ああ、それではじぶんたちもここでうえ死にして、いつかあのようにあさましい骸骨になってしまうのか……。  進がそういうと、里見助手もうなずいて、 「そうだ、それがあいつらのねらいなんだ。われわれがうえ死にしたころを見はからい、うえからおりてきて、着物をはぎとっていくのだろう。骸骨になってしまえば、だれがだれやら、わからないからね」 「いやです、いやです。ぼく、こんなところで死ぬのはいやです」  進はおもわず叫んだ。 「それはぼくだっておなじことだ。だからわれわれは力をあわせ、なんとかしてここを抜《ぬ》け出すくふうをしよう。ときに御子柴くん、きみの腕時計《うでどけい》は何時《なんじ》だね」 「いま十時です」 「ぼくの時計もおんなじだ。われわれがここへつき落とされたのは、ま夜なかの一時すぎのことだったから、われわれは九時間ほど気をうしなっていたことになる。それじゃもう、うえでは手術《しゆじゆつ》もすんだろう」  里見助手はそうつぶやくと、さも恐《おそ》ろしそうに身ぶるいする。 「里見さん、里見さん。その手術とはどういうことですか。さっき聞いたところでは、梶原の脳《のう》をとって、ゴリラの頭にいれかえるとか……」 「そうなんだ。先生は動物実験で、みごとそれに成功されたんだ。だからこんどは人間で、実験しようとしていられるんだ。これが成功すると、すばらしい頭脳《ずのう》をもちながら、結核《けつかく》やガンにおかされて、いまにも死にそうになっているひとたちの脳をぬきとり、強い、たくましいからだをもった人間にうえかえる。そうすれば、すばらしい頭脳をもった人たちは、いつまでも元気でいられるとおっしゃるんだ」 「しかし、それでは強いからだをもった人間はどうなるんです」 「だから、先生もお困《こま》りになった。そこで人間のかわりにゴリラを使うことになったんだが、さて、そのゴリラの頭にうえつける脳だ。むやみに人間の脳を抜きとるわけにはいかんから、弱っているところへとびこんだのが、大悪人の梶原《かじわら》だ。梶原はつかまったら死刑《しけい》になる男だ。だから、それを実験の材料に使おうと、眠《ねむ》り薬で眠らせて、はるばるこの島まで連れてきたんだ」 「し、し、しかし、里見さん。そ、そんなことができるのですか」 「できるんじゃないかと思う。げんに、動物実験では成功したんだ。ある二|匹《ひき》の動物の脳を抜きとり、それをいれかえたところが、どちらもりっぱに生きていたんだ。だから、ぼくは恐れるんだ。梶原のあの悪の天才ともいうべき脳が、ゴリラの体内でよみがえったら……」  進はそれを聞くと、全身の血がこおりつくような恐ろしさを、かんじないではいられなかった。ああ、そうなったら梶原にねらわれている由紀子《ゆきこ》の一家はどうなるのか……。    大悪人の再生  それはさておき、進《すすむ》や里見《さとみ》助手にとっては、まずこの穴《あな》ぐらを抜けだすことがなによりもたいせつな仕事だった。  ふたりは懐中《かいちゆう》電灯で、くわしくあたりを調べてみたが、地下ふかく掘《ほ》りさげられたその穴ぐらは、四方をかたい岩にとりかこまれて、どこにも抜け出す口はない。  ただひとつ、出入りのできる抜け道は、あのすべり台しかないのだが、それは約十メートルほどもあり、しかも傾斜《けいしや》がきゅうなので、それをはいのぼろうなどとは思いもよらない。ふたりは四つんばいになり、いくどかのぼろうとこころみたが、ものの五メートルものぼらぬうちに、つるつる下へすべり落ちてしまうのだ。ふたりはまもなくへとへとにつかれて、べったりそこへすわってしまった。 「御子柴《みこしば》くん、懐中電灯は消しておこう。こうなったらあかりがなによりたいせつだ」 「はい」  懐中電灯を消して、暗がりのなかにすわっていると、心ぼそさと同時に、空腹《くうふく》をかんじはじめた。進は思い出したように腰《こし》に手をやったが、さいわい、べんとうをつつんだふろしきは、まだそこにぶらさがっていた。 「ああ、里見さん。ここににぎり飯があるんですけど、食べませんか」 「えっ、にぎり飯? きみが持ってきたの」 「ええ、ぼく用意してきたんです。里見さん、懐中電灯をつけてください」  懐中電灯の光のなかで、進が竹の皮のつつみを開くと、大きいにぎり飯が六つある。 「ここに水も用意してきました。ひとつ食べてください」 「それはありがとう。しかし、御子柴くん」 「はい」 「われわれは、いつまでもここにいなければならぬかもしれないから、水も食べ物もできるだけ倹約《けんやく》しよう。このにぎり飯を半分ずつ食おうじゃないか」 「はい、では、そうしましょう」  一つのにぎり飯をふたつにわって、半分ずつたべてしまうと、ふたりともいくらか元気が出てきた。そこでまたすべり台をのぼろうとするのだが、なんべんやっても同じこと、まるでアリ地獄《じごく》に落ちたアリのように、もがいても、あせっても、ズルズルしたへすべり落ちてしまうのだ。  そうして、その日はすぎた。いや、その日ばかりではなく、そのつぎの日もつぎの日も、すべり台をのぼろうとしては失敗し、がっかりしては暗闇《くらやみ》のなかにすわっていた。  さいわい水は岩のあいだからしみ出しているのを発見したので、のどがかわくようなことはなかったが、にぎり飯はもうすっかり食べつくしたので、ふたりとも、おなかがぺこぺこにすいていた。 「御子柴くん、こんなことをしてちゃいけない。なんとかして、ここを抜《ぬ》け出さなきゃならないが、それにはひとつの方法を思いついた」 「方法って、ど、どんなことですか」 「ここにある骸骨《がいこつ》をすべり台にそってつんでいくのだ。そして、それを階段《かいだん》にして、すこしでもうえにのぼってみよう」  ああ、それはなんという恐《おそ》ろしい、気味の悪いことだろうか。  しかし、いまはそんなことをいっている場合ではない。ふたりはせっせとすべり台にそって骸骨《がいこつ》をつみはじめたが、そのときだ。  だしぬけにうえのへんから、すさまじい叫《さけ》び声が聞こえてきたかと思うと、すべり台のうえのあげぶたがあき、そこからだれか、すべり台のうえを矢のようにすべってきた。 「あっ、あぶない」  ふたりがさっと左右にとびのいたせつな、ガラガラとつみかさねた骸骨のうえへすべり落ちてきたのは、なんと白い手術着《しゆじゆつぎ》をきた鬼頭《きとう》博士《はかせ》ではないか。 「あっ、先生」  里見助手はおどろいて、鬼頭博士を抱《だ》き起こしたが、そのとたん、なんともいえぬ恐《おそ》ろしさに、里見助手も進もおもわず悲鳴をあげてとびのいた。  鬼頭博士はもののみごとに、首ねっこをおられて死んでいるのだ。しかし、恐ろしいのはただそればかりではない。だれかが怒《いか》りにまかせてかきむしったように、鬼頭博士のその顔は、人相のみわけもつかぬほど、くちゃくちゃにくずれているのだ。進は全身の毛が、ゾッとさかだつのをおぼえた。 「ああ、いけない!」  里見助手は目をつぶると、 「先生の手術は成功したにちがいない。大悪人|梶原《かじわら》の脳《のう》は、ゴリラの頭のなかで生きかえったのだ。梶原は気がついてみると、じぶんがゴリラにされているので、怒りにまかせて先生を殺してしまったのだ」  それを聞くと、進は、この世のできごととも思われぬ、あまりの恐ろしさに歯の根ががたがたあわなかった。 「里見さん、里見さん。それでゴリラになった梶原が、こののちどうするでしょうか」 「それはいうまでもない。まずだいいちに、三芳判事《みよしはんじ》に復讐《ふくしゆう》しようとするにちがいない。それから、こんごこの島にあつまっている、日本じゅうの悪人という悪人を手下につけ、悪事のかぎりをつくすだろう」  ああ、そんなことになったら、由紀子《ゆきこ》はどうなるだろう。いやいや、危険《きけん》なのは由紀子ばかりではない。ゴリラにされた大悪人の梶原が、やけくそになってあばれまわったら、なにをしでかすかしれたものではない。危険といえば、だれもかれも危険なのだ。 「とにかく御子柴くん。もういちど骸骨《がいこつ》をつみなおして、このすべり台をのぼってみよう」  それはとてもやっかいで、むずかしい仕事であった。生きている人間とちがって、こわれやすい骸骨だから、うっかり力をいれてふんばると、すぐガラガラとくずれてしまう。しかし、それをやっとひとつずつ、うまくつみかさねていって、八、九メートルほどはいのぼると、 「しめた! 御子柴くん、ぼくに肩車《かたぐるま》をして、あげぶたをしたから押《お》してくれたまえ」 「はい」  いわれるとおりに進が、里見助手の肩にのって、あげぶたをそっと押してみると、さいわい、なんなく外へ開いた。  こうなるとしめたものだ。身のかるい進は、ひらりとうえへとびあがると、すぐ手をのばして里見助手をひっぱりあげる。そして、あらためて部屋《へや》のなかを見まわしたが、そのとたん、ふたりとも、ギョッと目を見はってあとずさりした。  ああ、なんということだ。手術台《しゆじゆつだい》のうえには、脳《のう》をぬかれた大悪人、梶原《かじわら》の死体がよこたわっているではないか。  いや、いや、梶原のからだは死んだけれど、あの悪の天才ともいわれる脳は、ゴリラの頭のなかに生きているのではあるまいか。  そのしょうこには、ちょうどそのころ、骸骨島《がいこつじま》をはなれていく、百トンあまりの小さな汽船のデッキのうえに、怪《あや》しい影《かげ》がつっ立って、まじろぎもせずに島のほうをながめていた。その影は、まっ黒なずきんにだぶだぶの黒いガウンを着ていたが、ガウンのそでやすそからのぞいている、その手や足はたしかに人間ではなかった。いやらしい、毛むくじゃらのゴリラの手や足なのだ。ゴリラになった梶原は、島にのこしたじぶんのからだに、こうしてなごりをおしんでいるのではあるまいか。  その左右には大男の船長と、小男のお小姓《こしよう》がうやうやしくすわっている。  ああ、こうして大悪人の梶原は、ゴリラとなって再生したのだ。あやういかな三芳|判事《はんじ》とその一家! 由紀子の身のうえにはどのような災難《さいなん》がせまってくることだろうか。    イヌの遠ぼえ  御子柴進《みこしばすすむ》がすがたを消してから、きょうでもう二十日《はつか》あまりになる。  心配した、進のつとめている東京の新日報社《しんにつぽうしや》ではあらゆる手をつくしてゆくえをさがしたが、どこへ行ったかさっぱりわからなかった。  進が東京駅から、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》と由紀子《ゆきこ》にだしたハガキは、それぞれ手もとへとどいたがそれにも、ちょっと旅行をするとだけしか、書いてないから見当もつかない。  なにしろ日に何万人、いや、何十万人という人が、乗ったり降《お》りたりする東京駅だ。そのなかから、ひとりの少年のたよりを聞きだそうとするのはまったくむりである。  この進のゆくえについて、いちばん心をいためているのは、由紀子をはじめ、三芳《みよし》判事とおくさんの文江《ふみえ》だが、ほかにもうひとり、進のことを、たいそう心配している人がある。  いうまでもなくそれは、新日報社の三津木俊助。三津木俊助というのは、新日報社きっての腕《うで》きき記者で、いままでに、警視庁《けいしちよう》でも持てあましているような怪事件《かいじけん》、難事件《なんじけん》を、みごと解決《かいけつ》したことが、なんどあるかしれないが、そんなとき、いつも俊助の片腕《かたうで》となってはたらくのが、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴少年だ。  その御子柴進が、とつぜんゆくえ不明になったのだから、俊助の心配は、ひととおりや、ふたとおりではない。  これまでの事情《じじよう》から推理《すいり》して、進がゆくえ不明になったのは、大悪人の梶原《かじわら》が、あれきりすがたをかくしたのと、なにか関係がありそうに思われる。  そういえば、進も進だが、大悪人の梶原は、そののちいったいどうしたのだろう。警視庁《けいしちよう》では全国に手くばりをして、やっきとなってさがしているのだが、いまもって、ぜんぜんゆくえがわからない。  わからないのもどうりである。大悪人の梶原は、もうそのじぶん、鬼頭《きとう》博士《はかせ》の手によって、ゴリラにされていたのだから。  しかし三津木俊助は、そんなこととは夢《ゆめ》にもしらない。三芳|判事《はんじ》のところへいけば、なにかたよりが聞けるかもしれないと、今夜も今夜とて、芝公園《しばこうえん》のそばにある、判事のうちをおとずれたが、判事もおくさんの文江も、また、梶原にねらわれている由紀子も、ただおろおろと気をもむばかりで、いっこうになんの手がかりもつかめない。  がっかりした俊助が、三芳判事のうちを出たのは、もうかれこれ一時ごろ、今夜は空がくもっているので、外はまっ暗である。  俊助は三芳判事のうちをでると、公園のなかを抜《ぬ》けていくことにした。そのほうが、ところどころに街灯がついているので、かえって明るいのである。  夜ふけのこととて、公園のなかにはむろん人かげもない。遠くのほうでときどき電車の走る音が聞こえるが、そのほかには物音とてなく、あたりは海の底のように、しいんとしずまりかえっている。  俊助は足をはやめて、公園のなかほどまでやってきたが、そのときだ。  とつぜん、公園の出口のほうで、けたたましくイヌのほえる声が聞こえた。  しかも、それが一|匹《ぴき》ではない。二匹、三匹、四匹、五匹……。すくなくとも五匹のイヌが、気がくるったようにほえているのだ。  俊助はおもわずハッと、暗がりのなかに立ちすくむ。あのイヌのほえかたはただごとではない。ひょっとしたら梶原が、公園をぬけてやってくるのではあるまいか。  はたしてイヌのほえ声は、だんだんこちらへ近づいてくる。それにまじって、 「ちくしょう!」  だの、 「あっちへいけ!」  だのと、にくしみにみちた、男のふとい声が近づいてくる。  俊助はすばやく木かげに身をかくしたが、そのとたん、五匹のイヌにとりかこまれた、怪《あや》しいすがたが街灯のあかりのしたにあらわれた。  それは頭からすっぽりと、まっ黒なとんがりずきんをかぶり、からだには、これまたまっ黒なガウンをきた人物だが、その歩き方というのがふつうではない。  まるで地をはうようにとんできたそのかっこうが、ゴリラにそっくりだ。しかも、街灯のしたまできて、すっくと立ちあがり、じだんだふみながら、大手をひろげたその手さきをみて、さすがの三津木俊助も、おもわずゾーッと全身に、あわだつのを感じずにはいられなかった。  なんと、ガウンのさきからのぞいている、あの気味の悪い毛むくじゃらの手……。それはあきらかに人間の手ではない、指ではない。サルの手なのだ。ゴリラの指なのだ。  おまけにずきんにあいているふたつの穴《あな》からのぞいている、あの両眼《りようがん》のものすごさ。これまた人間の目ではなく、あきらかに野獣《やじゆう》の目つきである。  それでは、ゴリラがずきんをかぶり、ガウンで毛むくじゃらのからだをつつんでいるのであろうか。しかし、それにしては、さっきイヌどもにむかって、あっちへいけだの、ちくしょうだのと叫《さけ》んでいたのは、いったいだれだったのだろう。  怪物《かいぶつ》は五|匹《ひき》のイヌにとりかこまれ、ものすごい目をひからせながら、両手をさしあげ、じだんだふみ、怒《いか》りにみちたうなり声をあげている。それをとりまく五匹のイヌが、いよいよますます、まるで気がくるったようにほえたてる。  俊助は手に汗《あせ》をにぎって、この異様《いよう》な光景をみつめていたが、そのときだ。とつぜん、五匹のイヌの一匹が、怪物の、のどめがけてとびかかった。  と、そのとたん、 「おのれ! このやろう!」  ああ、なんと、ゴリラが口をきいたではないか。  さすがごうたんな俊助も、びっしょり全身に汗をかき、なにかしら、悪い夢《ゆめ》にでもうなされているような気持ちだった。  いっぽう、怪物は、とびかかってきたイヌのしっぽをわしづかみにしたかと思うと、きりきりきりと宙《ちゆう》にふりまわす。 「キャーン……、キャーン……」  イヌはふた声ばかり、悲しそうな声をたてたが、それきり声もでなくなったのは、目をまわして、気が遠くなったのだろう。怪物はそのイヌを、いやというほど大地にたたきつけると、イヌはそれきり動かなくなってしまった。  この勢《いきお》いにのこりの四匹は、さすがに恐《おそ》れをなしたのか、すこしばかりあとずさりして、しかし、それでもまだ気がくるったようにほえている。  怪物はずきんのおくから、ものすごい目で四匹のイヌをにらみながら、 「おのれら、しょうこりもなくまだくる気か。くるならこい。かたっぱしから八つざきにしてくれる!」  怪物が両手をひろげたとたん、四匹のイヌが同時にサッととびかかったが、 「おのれ!」  と、ゴリラが叫《さけ》ぶのと、 「キャーン」  と、一|匹《ぴき》のイヌが悲鳴をあげるのと、ほとんど同じしゅんかんだった。なんと、怪物《かいぶつ》はイヌのうわあごとしたあごに両手をかけ、バリバリとひきさいて、大地にたたきつけたのだ。  これには三津木俊助も、ゾーッと総毛立《そうけだ》つような恐《おそ》ろしさをかんじたが、イヌたちも恐れをなしたか、しっぽをまいて逃《に》げだした。  と、それといれちがいに、 「ボス、ボス、どうしました」  と、声をかけながら小走りに、怪物のそばへ近よってきた者がある。 「おお、お小姓《こしよう》か」  と、さすがに怪物も息をはずましている。  三津木俊助は知らなかったけれど、それこそ探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴少年を、死の穴《あな》ぐらへつき落とした、あの小男のお小姓なのである。 「ああ、ボス……」  と、さすがのお小姓も、そこによこたわっている、むごたらしい二匹のイヌの死体に目をとめると、ゾッとしたようにとびのき、 「イヌをやっつけたんですね」 「ふむ、あまりうるさくほえつきやがるので……」 「それにしても、大した力ですね。ところでボス、どこもけがは……?」 「ふむ、腕《うで》をすこしかみさかれた」  みればなるほど、だぶだぶのガウンの袖《そで》がかみさかれて、そのしたから、毛むくじゃらの腕がのぞいている。それをみると俊助は、またゾーッとした。  ああ、ゴリラが口をきく。いったい、これは夢《ゆめ》ではないのか。 「ボス、今夜はあきらめて帰りましょう。イヌの声をききつけて、人がくるといけませんから、復讐《ふくしゆう》はいつでもできます」  復讐——と聞いて、俊助はおもわずドキリと息をのむ。 「だって、お小姓、せっかくここまできたものを……」 「いけません、いけません。今夜はなんだかえんぎがわるい。ボスの身に、もしまちがいがあったら、骸骨《がいこつ》団の連中が、どんなにがっかりするかしれません。さあ、傷《きず》の手当ては自動車のなかでしましょう。はやく、はやく……」 「まあ、待て。それじゃ、イヌの死体のしまつをしていこう。人に怪《あや》しまれるといけないから」  それを聞くと俊助は、そっと木かげをはなれて、暗がりのなかを足音もなく、公園の出口まできてみると、はたしてそこに自動車がとまっている。  さいわいだれも乗っていない。自動車のうしろについている、トランクのふたを開くと、これまたさいわい、からっぽだった。俊助はあたりを見まわし、すばやくトランクのなかへしのびこんだ。  ああ、大胆不敵《だいたんふてき》な三津木俊助。かれはこうして、はからずも怪物《かいぶつ》の、あとをつけてみようとしているのだ。  それはさておき、イヌの死体もかたづいたのか、それからまもなく怪物とお小姓《こしよう》が、公園のなかからでてくるとすぐ自動車に乗って出発する。  トランクのなかの俊助は、いったい、どこをどう走っているのかけんとうもつかない。  こうして半時間、自動車はどうやら目的の場所へついたらしい。  俊助も怪物とお小姓が、自動車をでて、なにやら小声で話しながら、立ちさるけはいを聞きさだめてから、そっとトランクのふたを開いた。  それから、あたりのようすに気をくばりながら、トランクからはいだそうとしたが、そのとたん、やわらかいキレのようなものが、頭のうえからかぶさってきて、あたりがまっ暗になったと思うと、 「イッヒッヒ、飛んで火にいる夏の虫とはこいつのことだ。とうとう罠《わな》にかかりゃあがった」  あざけるようなお小姓の声。  しまった! と、心のなかで叫《さけ》んだ俊助が、必死となってもがいたが、もうそのときはおそかったのだ。頭からすっぽり袋《ふくろ》をかぶせられた俊助は、つよい力でずるずると、トランクのなかからひっぱりだされた。 「きさまはいったい何者だ」  頭のてっぺんから足のさきまで、すっぽり袋につつまれた俊助は、いま米だわらのように床《ゆか》にころがされている。  そこは三十じょうもしけるかと思われる、コンクリートでかためた広い部屋《へや》である。その部屋の正面は、一|段《だん》高くなっていて、そこに、さきほどの怪物が、ゆうぜんといすに腰《こし》をおろしている。そして、その左右にひかえたのは、大男の船長と小男のお小姓である。  袋づめの俊助は、その壇《だん》のしたにころがされているのだが、そのまわりには、怪物とおなじ服装《ふくそう》をした連中が、三十人あまりも、いすに腰をおろしたり、あるいは、立ってぶらぶらしている。  胸《むね》についたどくろのマーク。それにいちいちナンバーがうってあるところからみれば、いつか探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴《みこしば》少年が、骸骨島《がいこつじま》でみた連中にちがいない。 「いったい、きさまは何者だ」  袋づめの俊助に向かって、そう声をかけたのは、あのヘビのように、いんけんなお小姓だ。  俊助はそれに対して、答えようか、答えまいかと考えている。お小姓はニヤリと残忍《ざんにん》な笑いを浮《う》かべると、 「おい、七号、そいつに答えられるようにしてやれ」  と、俊助のそばに立っている男に合図をする。 「はっ」  と、答えた七号は、ポケットから、万能《ばんのう》ナイフをとりだすと、なかからきりをひきだして、それを袋《ふくろ》のうえからつきさした。きりはちょうど俊助の、のどの前につきだした。 「おい、ボスがおたずねだ。しんみょうに返事をしろ、返事をしないと……」  きりのさきが、チクリと俊助ののどをさす。 「あっ、ま、待ってくれ」 「答えるか」 「答える……」 「ふむ、よし」  小男のお小姓《こしよう》は、ニヤリと笑って、 「いったい、きさまは何者だ」  と、さっきとおなじことを聞く。 「新聞記者だ」 「なに、新聞記者だと……?」  怪物《かいぶつ》とお小姓、それから大男の船長の三人は、ギョッとしたように顔を見あわせて、 「いったい、なに新聞の記者だ」  と、お小姓がせわしそうにきく。 「新日報社《しんにつぽうしや》だ」 「なに、新日報だと……?」  うめくようにつぶやいて、怪物のボスが身をのりだした。 「それじゃ、きさまは御子柴進という小僧《こぞう》を知ってるか」  そうたずねたのはお小姓だ。 「な、な、なに御子柴進だと……? それじゃきみたちは、探偵小僧《たんていこぞう》をどうかしたのか」 「おお、あいつは探偵小僧というあだ名があるのか。その探偵小僧はな」 「おお、その探偵小僧は……?」 「ここから遠い、遠いところにある、人もすまぬ無人島の骸骨《がいこつ》のいっぱいつまった穴《あな》ぐらで、いまごろはもううえ死にしているじぶんだ」 「なに、探偵小僧がうえ死に……?」 「おお、そうだ。きさまはなんという名だ」 「三津木俊助……」 「よし」  と、お小姓は一同を見まわして、 「しょくん。この三津木俊助という新聞記者が、今夜われわれを尾行《びこう》してきたのだ。われわれの秘密《ひみつ》をすこしでも、知ったものをすててはおけぬ。この男にいったい、どのような刑罰《けいばつ》をくわえたものだろう」  お小姓《こしよう》のことばもおわらぬうちに、黒ずくめの服装《ふくそう》をした覆面《ふくめん》の部下たちが、 「死刑《しけい》だ、死刑だ」  と、いっせいに叫《さけ》んだ。    水葬礼《すいそうれい》  隅田川《すみだがわ》の下流、小田原町《おだわらちよう》から佃島《つくだじま》へかかっている橋を、かちどき橋という。  深夜の二時すぎ。  むろん橋のうえには人かげもなく、隅田川の両岸や、東京|湾《わん》のあちこちに、いかりをおろしている大小さまざまな汽船から、まっ暗な水のうえに落ちるともしびの色がさびしい。  空には星も月もなく、波の音がしだいに高くなってくるところをみると、嵐《あらし》が近づいたのかもしれない。  ボーボー……。  と、東京湾の沖《おき》から、ひと声、ふた声、汽笛の音が聞こえたが、それがまっ暗な空に消えていくと、あとはまたもとのしずけさ。聞こえるものといっては、橋げたにうちよせる波の音ばかり。  と、このしずけさを破《やぶ》って、とつぜん一台の自動車が、佃島のほうからすべるように、かちどき橋のうえにやってきた。  橋のらんかんのところには、明るい街灯がとりつけてある。自動車はできるだけその街灯の光をさけるようにして、橋のなかほどにぴたりととまった。  と、思うと、客席のドアを開いて、そっと顔をだしたのは、つばのひろい帽子《ぼうし》をかぶり、マスクで目をかくした男だ。  男は自動車のなかから、そっと橋のあとさきを見まわすと、 「七号、だいじょうぶのようだな」  と、ひくい声でささやいた。 「ふむ、だいじょうぶだとも、この時間だもの」  そう答えたのは運転台でハンドルをにぎった男。この男も黒いマスクでまゆから鼻のうえまでかくしており、マスクにあいた二つの穴《あな》から、ゆだんなくあたりのようすをうかがっている。 「よしそれじゃ、はやいことやっつけよう。七号、手つだってくれ」 「よし、十八号、はやくその荷物を車のなかからひきずりだせ。おれがあたりを見はっていてやる」  そういいながら七号は、すばやく運転台からとびおりると、あたりのようすに気をくばっている。かれらはたがいに名まえをいわず、番号で呼びあうことにしているらしい。 「よし」  と答えて十八号も、自動車からとびおりると、これまたあたりのようすに気をくばりながら、ずるずるとひきずりだしたのは、人間のかたちをした麻袋《あさぶくろ》。いうまでもなく、袋のなかの人間とは新日報社《しんにつぽうしや》の三津木俊助《みつぎしゆんすけ》である。 「七号、いいな」 「だいじょうぶ、だいじょうぶ。人のこぬうちにはやく、はやく」 「よし、それじゃ頭のほうをもってくれ、おれが足のほうをもつ」 「ふむ、よし」  十八号と七号は、袋づめになった俊助の頭と足をかかえると、自動車のそばをはなれて、橋のらんかんに走りよる。  俊助は気でもうしなっているのか、口もきかねば身うごきもしない。 「やい、俊助、これがさいごだ。ねんぶつでもとなえていろ」 「悪者を追っかけるのは、地獄《じごく》へいってからにしろ、アッハッハ」 「さあ、十八号」 「よし、それじゃおれが合図をしよう。一、二いの三」  十八号が叫《さけ》んだかと思うと、ふたりの悪者は袋づめの俊助を、頭上高くさしあげて、サッと川のなかへ投げ落とした。 「ああ、ああ」  麻袋が橋のらんかんをはなれたとたん、袋のなかから、俊助の叫びがもれたが、それもつかのま、大きな水音をたてて水面へ落ちると、袋はブクブクと、川底ふかく沈《しず》んでいく。 「これでうまいぐあいにかたづけたわけだな」 「そうだ、そうだ。三津木俊助といえば、新聞記者というより、名探偵《めいたんてい》としてゆうめいな男、つまり、われわれにとっては目のうえのたんこぶだ。それがこんなにかんたんにかたづいたのは、ボスの運がつよいからだ」 「そうだ、そのとおりだ。それじゃ人めにつかぬうちにはやく帰って、このことをボスに報告《ほうこく》しよう」  七号と十八号のふたりの悪者は、あたりを見まわしだれも見ている者のないことをたしかめると、そそくさと自動車にとびのり、橋をわたって、小田原町の暗闇《くらやみ》へすがたを消した。  ところが、その自動車が見えなくなるとすぐうしろから、またもや、やってきたのは一台の自動車。さっき三津木俊助が投げこまれた、らんかんのそばまでくると、ぴたりと自動車をとめ、運転台からとびおりたのは、と《ヽ》り《ヽ》う《ヽ》ち帽子《ヽぼうし》をまぶかにかぶり、黒メガネをかけた青年だ。  らんかんによじのぼって、暗い川のおもてをのぞきながら、 「御子柴《みこしば》くん、御子柴くん。さっき、あいつらが川のなかへ、なにか投げこんでいったのは、たしかにこのへんだったね」 「そうです、そうです。里見《さとみ》さん」  と、そう声をかけながら、自動車のなかから出てきたのは、なんと探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴少年ではないか。  御子柴|進《すすむ》もらんかんによじのぼって、川のなかをのぞきながら、 「なんだか大きな袋《ふくろ》のようなものでしたね」 「うん、それに袋がらんかんをはなれたとき、ああっ、というような声が聞こえたぜ」 「里見さん、里見さん。ひょっとすると、あの袋のなかには、三津木さんがはいっていたのじゃありませんか」  進の声はふるえている。 「ようし」  と、そう叫《さけ》んで、らんかんから橋のうえへとびおりたのは、鬼頭《きとう》博士《はかせ》の助手の里見青年だ。里見助手が大いそぎで、オーバーや服をぬぎはじめたから、探偵小僧はおどろいた。 「あっ、里見さん、どうするんですか」 「どうもこうもない。あれがだれであったにしろ人間を見殺しにはできない。御子柴くん、洋服の番をしていてくれたまえ」  と、たくましいパンツひとつのはだかになった里見青年。海軍ナイフを口にくわえると、ふたたびらんかんのうえによじのぼり、大きく深呼吸《しんこきゆう》をしたのち、ざんぶりとばかりに川のなかへとびこんだ。  進は里見青年のオーバーや洋服をかかえたまま、らんかんに息をころしてまっ暗な橋のしたをのぞいている。橋のしたには、橋げたにあたってくだける波の音しか聞こえなかったが、まもなく、ポチャポチャと水をかきまわす音が聞こえてきた。 「あっ、里見さん、見つかりましたか」 「いや、まだ」  里見助手はただひと声こたえると、一呼吸二呼吸と、大きく深呼吸をしておいて、またもや川底へもぐっていく。  こんどもだめだった。ポッカリ浮《う》きあがった里見助手は、みたび大きく深呼吸をすると、こんどはすこし方角をかえてもぐりこんだ。  橋のうえでは進が、手に汗《あせ》をにぎって待ちうけている。里見助手はずいぶんながいあいだもぐっていた。  もしや里見さんの身にまちがいが……と、進が気をもみはじめたころ、やっと水をかく音と、クジラが潮《しお》を吹《ふ》くような息づかいが聞こえてきた。 「あっ、里見さん、どうでした」 「ああ、見つかったよ。やっと袋を切りひらいてたすけだした。御子柴くん、自動車を小田原町のほうへもっていってくれたまえ」  と、いいながら、ぐったりと気をうしなった俊助のからだをだいて、里見青年は暗い川のおもてを横ぎっていく。    こうして俊助《しゆんすけ》はすくわれた。  じぶんをすくってくれたのが、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴《みこしば》少年と、その友だちであると知ったとき、三津木《みつぎ》俊助がどんなにおどろいたか、またよろこんだかというようなことは、あまりくだくだしくなるからこれははぶくが、ふたりがどうして俊助の、水葬礼《すいそうれい》の場にいきあわせたかということだけは、ごくかんたんに説明しておこう。  骸骨島《がいこつじま》からようやくのことで、東京へ帰ってきた探偵小僧の御子柴少年と里見《さとみ》助手は、獣人魔《じゆうじんま》の一味にゆだんをさせるため、わざとすがたをかくして、ひそかに由紀子《ゆきこ》の家を見張《みは》っていたのだ。いつか獣人魔|梶原《かじわら》が、復讐《ふくしゆう》のためにやってくるだろうと思ったからだ。  ところが、はたせるかな、夕べそれらしいすがたを見つけたので、おまわりさんにそれを知らせようと思っているとき、とびだしたのが三津木俊助。梶原ののってきた自動車のうしろのトランクへかくれるところを見たから、もしものことがあってはならぬと、ひそかに自動車であとをつけたのだ。  そうして、獣人魔のかくれ家をつきとめ、しばらくそこを見張っているうちに、覆面《ふくめん》をしたふたりの男が、人間のようなかたちをした麻袋《あさぶくろ》を、自動車に積んでいくのを見て、もしやと思ってあとをつけたのだった。  三津木俊助はその話からひきつづいて、骸骨島における、恐《おそ》ろしい鬼頭《きとう》博士《はかせ》の実験をきかされたとき、それこそ大地がゆれるような大きなおどろきにうたれた。  もし、じぶんじしん、口をきくゴリラのような怪物《かいぶつ》を見ていなかったら、俊助はきっとふたりを気が変になったと思ったことだろう。しかし、ゴリラはじっさいに口をきいたのだ。と、すれば鬼頭博士の実験は成功し、大悪人梶原のたましいが、頭脳《ずのう》が、ゴリラのからだで再生したものとしか思われない。  三津木俊助の気力体力が回復《かいふく》するのを待って、このことはただちに警視庁《けいしちよう》へ報告《ほうこく》された。  ちょうどそのとき、警視庁にはおなじみの等々力警部《とどろきけいぶ》がいなかった。そして、この報告をうけたのは、糟谷《かすや》というわかい警部だったが、糟谷警部はばかにして、三人の話をほんとうにしなかった。  それでも、三人があまり熱心に話をするので、それではともかくいってみようと、五、六人の警官《けいかん》を呼《よ》びあつめ、探偵小僧や里見助手を案内として、獣人魔がアジトにしていた、佃島《つくだじま》にある古ぼけた倉庫にでかけていった。  しかし、そのときにはすでに、倉庫のなかはもぬけのからで、かくべつ怪《あや》しいふしも見あたらない。 「アッハッハ、やっぱりわたしの思ったとおりだ。人間の頭脳をゴリラの頭にうえつけるなんて、そんなばかげたことができるはずがない。三津木さん、あんたもそんな話を信用するなんて、よほどどうかしていますね」 「しかし、警部《けいぶ》さん。ぼくじしん、その怪物《かいぶつ》を見たんですよ」 「ゴリラが口をきいたんですか、アッハッハ。三津木さん、あんた酔《よ》っぱらってたんじゃないんですか。それとも夢《ゆめ》でも見たのかな。アッハッハ、三津木俊助もやきがまわったかな」  なんとあざけられてもしかたがない。がらんとした倉庫のなかには、どこにもそんな怪物がいたというしょうこはないのだから。 「やれやれ、朝っぱらからとんだむだ足をふまされた。さあ、みんなひきあげた」  こうして、警視庁《けいしちよう》ではぜんぜん三人のいうことをとりあげないので、こうなったらしかたがない。じぶんたちの手で三芳判事《みよしはんじ》の一家をまもろうと、まい晩《ばん》のように三人で、こっそり判事の家をまもっているうちに、まったく思いもかけぬ方面で世にも奇怪《きつかい》な事件《じけん》がもちあがり、それをきっかけとして、東京都民は、恐怖《きようふ》のどん底にたたきこまれるはめになったのだった。    東京の一角、目黒《めぐろ》のほとりに、志賀恭三《しがきようぞう》老人のひろい大きな邸宅《ていたく》がある。  志賀恭三老人といえば、すぐにだれでも、ああ、あの人かとうなずくほどゆうめいな、日本の、いや、世界の真珠王《しんじゆおう》である。  さて、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》があやうく水葬死《すいそうし》をまぬがれてから、ひと月ほどのちのこと、目黒にある志賀恭三老人の邸宅はたいへんなにぎわいだった。  その日は恭三老人の七十回めの誕生日《たんじようび》にあたっていた。七十回めの誕生日は古稀《こき》の祝いといって、さかんにお祝いすることになっている。なにがさて、ゆうめいなお金持ちの恭三老人のこととて、その祝いのさかんなことといったら、祝いは正午ごろからはじまり、ひろいひろい庭には、あちこちにテントがはられ、すしでも、おしるこでも、コーヒーでも、なんでも自由に食べたり飲んだりすることができるようになっている。  それからまた、大きな舞台《ぶたい》がつくられて、そこでは手品だの奇術《きじゆつ》だの、かわいい少女のダンスだのと、ひっきりなしに余興《よきよう》がおこなわれている。  庭の一角には高だかとアドバルーンがあげられて、そのひかえ綱《づな》にひるがえるのぼりには、祝いのことばが染《そ》めぬいてある。空には万国旗がクモの巣のように張《は》りめぐらされ、音楽の音もうきうきと、何百人とあつまった客の心をうきたたせる。この恭三老人の祝いはひと月もまえから評判《ひようばん》になって、なんども新聞にでたくらいだが、それにはひとつわけがある。  恭三老人には、子どもや孫がおおぜいあるが、その人たちがあつまって、恭三老人への祝いとして、おくりものにしたのが真珠の宝舟《たからぶね》だ。  それは長さ一メートルほどの、昔の西洋の帆船《はんせん》のかたちをしているが、その船ぜんたいにちりばめられた真珠《しんじゆ》のねだんが、なんと五十億円もするという。  その真珠の宝舟を見せるというので、まえまえから評判にもなり、また、こうして、おおぜいの客があつまったわけだ。  その真珠の宝舟は、階下の大広間にかざってあり、そのまわりには、たえず人の波がうずまいていたが、夕方の四時ごろともなれば、潮《しお》がひくように人影《ひとかげ》もまばらとなり、やがて、客はひとりもいなくなり、のこっているのは、この宝舟《たからぶね》の見張《みは》りのために警視庁《けいしちよう》からよこされた、糟谷警部《かすやけいぶ》とふたりの部下だけ。  糟谷警部の部下は、ほかにも、おおぜいきているのだが、それらの人たちはふつうの服で、客のなかにまじっている。  なにがさて、何十億円もするという宝物《たからもの》がおおぜいの人の目にさらされるのだから、どのような悪者がまぎれこまないともかぎらぬと、警視庁であらかじめ、厳重《げんじゆう》にけいかいしたのだ。  さて、夕方の四時半ごろのこと。糟谷警部とふたりの部下が、ゆだんなく宝舟を見張っていると、とつぜん、部屋《へや》のなかでカチャリと、金属《きんぞく》のふれあうような音がした。  ハッとした糟谷警部は、あわててあたりを見まわしたが、べつにかわったところもなく、ただ、ホールのすみにたてかけてある西洋のよろいが、銀色にかがやいているばかり。  糟谷警部がホッとして、ひたいの汗《あせ》をぬぐおうとしたとき、またしてもカチャリと金属性《きんぞくせい》の物音。  糟谷警部はギョッとして、物音のするほうへふりかえったが、そのとたん、からだじゅうの毛という毛がさかだつような恐《おそ》ろしさにうたれた。  なんと、あの銀色にかがやくよろいが、カチャリ、カチャリと気味の悪い音を立てながら、生きもののごとく、真珠《しんじゆ》の宝舟めがけてあるいてくるではないか。    銀色の怪物《かいぶつ》 「あっ!」  と、叫《さけ》んだ糟谷警部《かすやけいぶ》とふたりの部下は、あまりの思いがけないできごとに、あっけにとられたままだ。  奇怪《きつかい》な西洋のよろいはその三人をしりめに、カチャリ、カチャリと真珠の宝舟めがけてあるいてくる。 「だ、だ、だれだ!」  糟谷警部の唇《くちびる》から、やっとそれだけの声がでた。  しかし、奇怪なよろいはそれに答えず、カチャリ、カチャリとかざり台のそばまでくると、むんずとばかり腕《うで》をのばして、真珠の宝舟に手をかける。 「お、おのれ!」  と、叫《さけ》んだ糟谷|警部《けいぶ》、腰《こし》のピストルをひきぬくと、ズドンと一発ぶっぱなしたが、なにしろあいては鋼鉄製《こうてつせい》のがんじょうなよろいだ。たまはカチッと音をたててはねかえる。  そのとたん、鋼鉄製のマスクのしたから、 「ウォーッ!」  と、世にも恐《おそ》ろしい叫び声。それを聞くと糟谷警部とふたりの部下はギクッとして、おもわず二、三歩あとずさりする。奇怪《きつかい》なよろいはそれをじろりとしりめにかけると、真珠《しんじゆ》の宝舟《たからぶね》を小わきにかかえて行きかかる。  それを見ると糟谷警部とふたりの部下は、 「おのれ、待て!」  と、叫ぶとともに、ズドン、ズドンとめちゃくちゃに、ピストルの弾丸《たま》をぶっぱなす。しかし、むねん、うちだす弾丸はことごとく、よろいにあたってはねかえるのだ。  それをみると部下のひとりは、たまりかねたかピストルをすて、むんずとよろいに組みついていく。鋼鉄のよろいは右手に宝舟をかかえたまま、左の腕《うで》で刑事《けいじ》の首っ玉をだきしめたが、とたんに刑事は、 「わっ、あ、あ、あ……」  と、世にもなさけない悲鳴をあげ、しばらく手足をばたばたさせていたが、やがて、ぐったり動かなくなってしまった。  ああ、なんという怪力《かいりき》! 鋼鉄のよろいの左腕に首をしめられて、刑事は息がつまってしまったのだ。  目の前のこの恐ろしい光景に、糟谷警部と部下のひとりは、ぼうぜんとして目を見張《みは》っていたが、鋼鉄のよろいが刑事のからだを投げすて、ゆうゆうとしてバルコニーから出ていこうとするのを見て、はじめてハッとわれにかえった。  警部は、ハッと思いついたように、ポケットからよびこをとりだし、 「ピリピリピリ……」  と、気が狂《くる》ったように吹《ふ》き鳴らす。  一方|邸内《ていない》では、あの鋼鉄のよろいのものすごい叫び声が邸内のすみずみまでひびきわたったとき、まるでそれが合図でもあったかのように、庭のあちこちからパッと煙《けむり》がまいあがった。  余興《よきよう》場、お茶のみ場、りんじにこしらえた仮《かり》トイレ……。と、あとでかぞえてみると合計七か所から、メラメラと赤いほのおと紫色《むらさきいろ》の煙がもえあがったから、 「あっ、火事だ、火事だ!」 「だれかが、邸内に火をつけたぞ!」  と、客は大あわてでにげまどい、ひろい庭のなかも、いもをあらうような混雑《こんざつ》になったが、そこへきこえてきたのが、ズドン、ズドンというピストルの音。  これがいよいよ人びとの恐怖《きようふ》にわをかけて、志賀恭三《しがきようぞう》老人の邸宅《ていたく》は、うえをしたへの大そうどうになったが、そこへとびだしてきたのがよろいのお化け。  志賀恭三老人の邸内に、みちあふれていた人びとは、バルコニーからとびだしてきた、銀色のよろいのすがたを見ると、 「わっ!」  と、叫《さけ》んで左右にゆれる。 「そいつをつかまえろ! その曲者《くせもの》をつかまえてくれ!」  バルコニーから糟谷警部《かすやけいぶ》がやっきになって叫んでいる。糟谷警部もさっきの曲者の怪力《かいりき》をみれば、とてもとびかかっていく勇気はないのだ。  その叫び声におうじて三人の刑事《けいじ》が、バラバラと、よろいの前に、立ちはだかった。だが、つぎのしゅんかん、三人とも地面にたおれて、息もたえだえにうなっていた。  真正面からきた刑事は、身をしずめて突進《とつしん》してくるよろいに頭突《ずつ》きをくらわされて、あおむけざまにひっくりかえり、あとふたりは西洋のよろいがふりまわす、左の腕《うで》にぶんなぐられて、三、四メートルもけしとんでいた。  この恐《おそ》ろしい腕力《わんりよく》に、見ている人たちは肝《きも》をつぶして、もうだれも手出しをしようとするものはない。  真珠《しんじゆ》の宝舟《たからぶね》を左の腕にもちかえた西洋のよろいは、ゴールへ突進するラグビー選手のように、むらがる人びとをつきのけ、かきわけ、庭の一角へ走っていく。  そのうしろから私服の警官《けいかん》が、ズドン、ズドンとピストルをぶっぱなすのだけれど、たとえ弾丸《たま》はあたっても、みなはねかえされるばかり。  志賀恭三老人の邸内《ていない》はいよいようえをしたへの大さわぎだ。  七か所からもえあがった火は、すぐに人びとが消しにかかったので、それほど大きく燃《も》えひろがらなかったが、がんらい火事というものは、人の心をさわがせ、うろたえさせるものである。その火事で大|混雑《こんざつ》をしているまっただなかへ、銀色の怪物《かいぶつ》がとびだしてきたのだから、あたりはいよいよ大さわぎ。  それにしても、西洋のよろいをきた曲者は、いったい、どうして逃《に》げだすつもりだろう。たとえ、いかに怪力にしろ、また、いかにピストルの弾丸をうけつけぬよろいをきていようとも、こうしておおぜいの警官にとりかこまれたら、いずれはつかまるよりほかにしかたがないのではないか。  ところが、その怪物にはちゃんと逃げみちが用意してあったのだ。  その日、志賀恭三老人の庭の一角には軽気球あげ場がこしらえてあった。客は希望によってその軽気球にのって空高く舞《ま》いあがり、東京じゅうをひとめで見物することができるのである。  恭三老人の庭であの火事さわぎや、怪物さわぎが起こったとき、空高く舞いあがっていた軽気球には、恭三老人が目のなかにいれてもいたくないほどかわいがっている、孫の百合子《ゆりこ》と、百合子の兄の三千男《みちお》が乗っていた。  百合子はことし十二|歳《さい》、三千男は三つうえの十五歳、百合子は小学生だが、三千男は中学生である。  ふたりは空に高く舞いあがった軽気球のうえから、東京見物をしながらたのしんでいたが、そのうちに百合子がふとしたのさわぎに気がついて、 「あら、おにいさま、お家《うち》が火事よ。お家が燃《も》えているわ」  百合子の叫《さけ》び声に、ふとしたを見おろした三千男も、 「しまった」  と、おもわず軽気球のカゴのなかから身をのりだした。  この軽気球は、一本のロープで地上へ、つなぎとめられていて、地上には滑車《かつしや》がそなえつけてあり、それをまくことによって、ロープをたぐって軽気球を引きおろすのだ。 「ああ、百合子、だいじょうぶだ。ほら軽気球番のおじさんが、一生けんめい滑車をまいている。ぼくたちはまもなく地面へおりることができるよ」  なるほど地上では軽気球番の老人が、だいじなお孫さんにまちがいがあってはならぬと、汗《あせ》をたらして滑車をまき、軽気球は目に見えて、ぐんぐん高度をさげていく。 「おにいさま。でも、何ごとが起こったんでしょう。みんな大さわぎをしているわ」 「だれかが、タバコのすいがらでもすてたんだろう。でも、あんなにおおぜい人がいるんだもの、きっとすぐ消えるよ」  だがそのときだ。ズドン、ズドンとピストルの音が聞こえて、あの銀色の怪物《かいぶつ》が、バルコニーからとびだしてきたのは……。 「あっ、おにいさま。あれ、なんでしょう。なんだか、ぎらぎら銀色にひかっているわ」 「あっ、百合子、たいへんだ。あいつ、真珠《しんじゆ》の宝舟《たからぶね》をかかえている!」 「おにいさま、どろぼうなの?」  百合子はサッと青ざめて、兄の三千男にすがりつく。 「そうかもしれない。それで警官《けいかん》がピストルをうっているのだ」  軽気球はいまや、地上三十メートルぐらいのところまでさがっているので、地面のようすが手にとるように見えるのだ。  銀色の怪物は、いつのまにやら真珠の宝舟を背《せ》に結びつけ、軽気球あげ場の滑車のそばまでかけよると、いきなり軽気球番の老人をけたおした。  老人の手をはなれた滑車は、またくるくる逆転《ぎやくてん》して、せっかく高度のさがった軽気球が、またずんずんと上昇《じようしよう》していく。 「あっ、おにいさま!」 「百合子!」  軽気球のうえでは三千男と百合子が、ひしとばかり抱《だ》きあったが、こちらは西洋のよろいをきた怪物だ。軽気球のひかえ綱《づな》にとびつくと、腰《こし》の短剣《たんけん》をぬきはなち、じぶんの足もとからブッツリたちきったからたまらない。  軽気球は糸のきれた風船のように、フワリフワリと空高くのぼっていく。おどろいたのは志賀恭三老人をはじめとして、家の人たち。 「あっ、軽気球がとんでいく!」 「あの軽気球にのっているのは三千男くんと百合子さんじゃない?」 「あっ、そうだ、そうだ、三千男と百合子だ。おお、神さま!」  恭三老人はあまりのおどろきと、悲しみに、おおぜいの人たちに取りかこまれて、とうとう気をうしなってたおれてしまった。  さて、こちらは軽気球の三千男と、百合子だ。 「ああ、おにいさま、あの悪者がだんだんこちらへのぼってきてよ」 「ああ、百合子。しっかりぼくに抱《だ》きついておいで」  ふたりがひしと抱きあっているうちにも、あの恐《おそ》るべき怪物《かいぶつ》は、しだいにロープをのぼって、軽気球に近づいてくる。やがて軽気球のカゴまでたどりつくと、たくみにカゴにかかっているあみの目をつたって、ひらりとなかへとびこんだ。 「あれえ! おにいさま!」  百合子は、いまにも気絶《きぜつ》しそうな声をあげて、三千男にむしゃぶりついたが、それもそのはず、ロープをのぼってくるうちに、かぶとと面あてがどこかへとんで、そのしたからあらわれたのは、なんとゴリラの顔ではないか。   「三津木《みつぎ》さん、三津木さんたいへんです!」  と、新日報社《しんにつぽうしや》の編集室《へんしゆうしつ》へとびこんできたのは、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴《みこしば》少年だ。 「いま、目黒《めぐろ》にある真珠王志賀恭三《しんじゆおうしがきようぞう》老人のところへ、わけのわからぬ怪物があらわれて、真珠の宝舟《たからぶね》をうばったうえ、軽気球にのって逃《に》げたそうです」 「なに、軽気球にのって逃げたあ?」  三津木|俊助《しゆんすけ》は、びっくりして目をまるくする。 「ええ、そうです。だから三津木さんとぼくにヘリコプター新日報号にのって、軽気球を追跡《ついせき》するようにと編集局長の命令です」 「ようし、探偵小僧こい!」  ふたりが屋上へとびだすと、すぐ飛行服に身をかため、待っているヘリコプター新日報号にとびのった。新日報号は、爆音《ばくおん》もいさましく、ただちに新日報社の屋上からとびたった。  さて、一方こちらは目黒の上空だ。軽気球はフワリフワリと空高くのぼっていったが、そのとき、どこからとんできたのか、一台の怪《かい》ヘリコプター。  軽気球からぶらさがっている、ロープのしたをゆるく輪をえがいて飛んでいたが、やがて機上から出た腕《うで》が、あやうくロープの先をとらえた。そして、それをヘリコプターの一部に結びつけると、そのまま、東の空へとんでいく。  おお、志賀恭三老人のやしきから、真珠の宝舟をうばいとったのは、獣人魔《じゆうじんま》となった梶原《かじわら》なのだ。獣人魔梶原には、おおぜいの部下のいることは、きみたちもごしょうちのとおりだが、かれらはヘリコプターさえ持っているのだ。  その怪ヘリコプターを操縦《そうじゆう》しているのは、たしかに小男のお小姓《こしよう》ではないか。  一方、こちらは三津木俊助と、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴少年をのせた新日報《しんにつぽう》号だ。目黒の上空までやってくると、 「あっ、三津木さん、あそこに軽気球がとんでいる!」  さっきから双眼鏡《そうがんきよう》を目におしあてていた御子柴進が、東の空をゆびさしながら叫《さけ》んだ。  軽気球は、いまや、ゴム風船ぐらいの大きさで、しだいに暗くなっていく空に浮《う》かんでいるのだ。  いや、ただ浮かんでいるのではない。怪《かい》ヘリコプターにみちびかれて、ゆらりゆらりとゆれながら、東の空へとんでいくのだ。  三津木俊助の合図によって、新日報号は、スピードをあげ、怪ヘリコプターにせまっていく。  むこうはなにしろ、軽気球を結びつけているので、あまりスピードを出すことができない。これさいわいと、ぐんぐんあいだをちぢめていった新日報号の機上より、熱心に双眼鏡をのぞいていた探偵小僧の御子柴少年は、とつぜん、あっと叫んで三津木俊助の腕《うで》をつかんだ。 「わかっている、わかっている!」  三津木俊助も双眼鏡をのぞきながらうなずいた。 「獣人魔《じゆうじんま》、梶原一彦《かじわらかずひこ》ですね」 「ふむ、いよいよあいつが悪事にのりだしたんだ」 「しかし、それにしても、あのカゴのなかにいる男の子と女の子はだれでしょう」 「さあ、だれだかわからないが、かわいそうに」  三津木俊助と探偵小僧の双眼鏡には、西洋のよろいをきた獣人魔梶原に抱《だ》きすくめられ、小鳥のようにふるえている、あわれな三千男《みちお》と百合子《ゆりこ》のすがた……。  ヘリコプター新日報号は、いよいよスピードをあげて、怪ヘリコプターに接近《せつきん》していったが、そのとき、はるか南の空からとんできた、もう一台のヘリコプターが、二台のヘリコプターのあいだにわりこむと、とつぜん、新日報号に向かって、  タ、タ、タ、タ、タッ!  と、機関銃《きかんじゆう》をうってきた。    空中戦 「しまった!」  と、双眼鏡をにぎったまま、青くなって叫んだのは探偵小僧の御子柴《みこしば》少年だ。 「獣人魔《じゆうじんま》の味方のやつが、獣人魔の逃走《とうそう》をたすけるためにやってきたんですね」 「ちくしょう!」  三津木俊助《みつぎしゆんすけ》も顔色かえて、くやしそうに唇《くちびる》をかむ。  なるほど、こういう手があるからこそ、獣人魔の梶原一彦《かじわらかずひこ》は、軽気球にのってゆうゆうと、味方のヘリコプターにみちびかれて行くのだ。  怪《かい》ヘリコプターは、いよいよ新日報《しんにつぽう》号に接近《せつきん》してきて、  ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、  と、機関銃《きかんじゆう》をうってくる。  夕やみせまる大空のうす暗がりに、機関銃のはく火花が、線香《せんこう》花火のように青じろくひかったり消えたりする。 「いけない、いけない。操縦士《そうじゆうし》くん」  と、さすがの三津木俊助も青くなった。 「退却《たいきやく》だ、退却だ! うっかりしていると、あのヘリコプターに撃墜《げきつい》されてしまうぞ」  せっかくここまで獣人魔を追いつめながら、みすみす見のがす残念さ……。しかし、いまはそんなことをいっているばあいではない。武器《ぶき》をもたぬ悲しさ、逃《に》げだすよりほかにみちはないのだ。  操縦かんをにぎった操縦士は、すでに進路を変えていた。  ところが、おどろいたことに、よこあいからあらわれた怪ヘリコプターは、新日報をおっぱらうだけでは満足せず、しつこくあとから追ってくるのだ。  そしてヘリコプターの距離《きより》が、機関銃の射程内《しやていない》へはいったとみるや、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、とうってくる。どうやら相手はあくまで、新日報号をうちおとすつもりらしいのだ。  それに気がつくと三津木俊助と御子柴|進《すすむ》、それから操縦かんをにぎった操縦士も、青くなってふるえあがった。 「おい、探偵小僧《たんていこぞう》これはいけない。万一のばあいにそなえて、パラシュートを身につけておけ。操縦士くん、きみも……」 「は、は、はい、三津木さん」 「だいじょうぶだ。パラシュートさえ身につけておけば新日報号に故障《こしよう》があっても、いのちだけはたすかるだろう」 「三津木さん、こうなりゃあ、死なばもろともでさあ」  さすがは新日報社の社員だけあって、操縦士はごうたんに笑っている。進も、じぶんのふるえたのがはずかしくなってきた。  あたりを見まわすと、もうすっかり暗くなっていて、むろん、あの軽気球をつないだヘリコプターは、東京|湾《わん》の上空はるか、いずこともなく逃げさっていた。  そして、いま三人の乗っている新日報《しんにつぽう》号のうしろからは、あの恐《おそ》ろしい怪ヘリコプターが、しゅうねんぶかくつけてくるのだ。  三津木俊助と御子柴進、それから操縦士《そうじゆうし》の三人は、手ばやくパラシュートを身につけると、いつでもヘリコプターからとびだせる態勢《たいせい》をとっている。  さっきから、しゅうねんぶかくあとを追っていた怪ヘリコプターが、きゅうにスピードをましたかと思うと、見るみるうちにふたつのヘリコプターの距離《きより》はちぢまっていく。 「ちくしょう。あいつ、あくまでわれわれを、ほうむってしまう気でいるんだな」  三津木俊助はまなじりをつりあげて、くやしそうに歯ぎしりしたが、そのとき、むこうのヘリコプターから、  ダ、ダ、ダー、  と、すさまじい音をたてて、機関銃《きかんじゆう》をうってきた。  その一|弾《だん》が命中したのか、新日報号の機関部から、ぱっと青じろいほのおがあがって、機体がぐらりとななめにかたむく。 「ああ、もういけない。それ、探偵小僧《たんていこぞう》、操縦士くん」 「三津木さん!」  探偵小僧の御子柴進は、三津木俊助のあとから目をつむって、パッと機上からとびおりた。  それからどれくらいたったのか。  進は、そのあいだが、ずいぶんながかったように思われる。  さいわいパラシュートはしゅびよく開いて、フワリフワリと落ちていく。その感じはなんともいいようのないほどいやなものだった。  あたりはもうすっかり暗くなって、そのなかを新日報号が、火の玉となって落ちていくのを目にしたが、それきり、進はふうっと気が遠くなってしまったのだ。そのうちに、 「御子柴くーん!」 「探偵小僧やあい!」  と、口ぐちに叫《さけ》ぶ三津木俊助と、操縦士の声にふと気がつくと、進はまっ暗な、海のうえに浮《う》いているじぶんに気がついた。  さいわい、あのパラシュートが救命具のかわりとなって、水におぼれもしないで浮いていたのだ。 「探偵小僧、やあい!」 「御子柴くーん」  闇《やみ》のなかからきこえてくる三津木俊助と操縦士の声に、進はいよいよはっきり気がついて、 「あっ、三津木さあん、ぼく、ここです、ここです」  進も泳ぎは、かなりたっしゃなのだが、パラシュートの綱《つな》がじゃまになって、泳げない。 「ああ、御子柴くん、生きていたか。いまいくぞう!」  闇のなかからなつかしい声が聞こえてきたかと思うと、やがて水を切る音がして、三津木俊助が近づいてきた。 「三津木さん」 「ああ、探偵小僧、ぶじでいてくれたか。いくら呼《よ》んでも返事がないので、どんなに心配したかしれやしない。さあ、身がるにしてやろう」  と、俊助は口にくわえたナイフをとって、ブツリ、ブツリとロープを切る。見ると俊助は服をぬいで、ほとんどはだかになっていた。  進も俊助に手つだってもらって洋服をぬぐと、 「三津木さん、操縦士《そうじゆうし》さんは?」 「ああ、村田《むらた》くんか。村田くんもぶじだ。村田くーん、こっちだ、こっちだ!」 「オーライ、いま行くぞう!」  やがて近づいてきた村田操縦士を見ると、これまたさるまたひとつのはだかになって、舟《ふね》のようなものを押《お》している。 「新日報《しんにつぽう》号のもえのこりだ。こいつにつかまっていりゃあ、おぼれる心配だけはない。そのうちにだれかやってくるだろう。たかが東京|湾《わん》だ。心配することはないよ」  ごうたんな三津木俊助は、へいぜんとしてうそぶいていたが、そのとき、いったん遠ざかっていた怪《かい》ヘリコプターが、東の空からまた舞《ま》いもどってきた。 「おや、あいつ、まだなにか用があるのかな」  空をあおいで村田操縦士がつぶやいたが、そのことばもおわらぬうちに機上から、  ダ、ダ、ダ、ダ、ダー、  と、機関銃《きかんじゆう》を掃射《そうしや》してきた。 「あっ、いけない。もぐれ!」  俊助の声に一同は、海中ふかくもぐりこむ。  悪魔《あくま》のような怪ヘリコプターは、しばらくそのへんを掃射していたが、べつに三人のすがたを見つけたわけではないらしく、見当ちがいの海面を、機関銃でうっていくと、そのまま、また東の空へとびさった。 「ちくしょう、しゅうねんぶかいやつだ」  しばらくして海面へ浮《う》かびあがった俊助は、いまいましそうにつぶやいたが、しかし、何がさいわいになるかわからない。  このヘリコプターの行動をあやしんで、それからまもなく近づいてきた、海上|自衛隊《じえいたい》の船に、三人はぶじにすくわれたのである。    小さな箱  志賀恭三《しがきようぞう》老人の邸宅《ていたく》で起こった事件《じけん》、それから、そのあと東京湾の上空で演《えん》じられたヘリコプター撃墜《げきつい》事件は、その夜のうちにラジオで放送されたから、さあ、東京じゅうは大さわぎ。  まだ、だれも、志賀恭三老人の邸宅をおそった怪物《かいぶつ》が、獣人《じゆうじん》となって再生した、大悪人の梶原一彦《かじわらかずひこ》とは知らなかったが、かわいい少年少女が軽気球で連れさられたときいて、同情《どうじよう》のために胸《むね》をいためぬものはなかった。  志賀恭三老人もいちどにふたりの孫をうばわれて、その悲しみはたいへんなもので、もし、百合子《ゆりこ》と三千男《みちお》を、ぶじにたすけてくれる人があったら、百万円の賞金を出そうともうし出たから、せけんの人はいよいよさわいだ。  警視庁《けいしちよう》では怪《かい》ヘリコプターが、東京|湾《わん》の上空を、東へとんだところから、悪人のアジトは洋上にあるのではないかと、海上自衛隊とれんらくして、関東いったいの海上を調べることになったが、夜のこととてこの捜索《そうさく》もはかどらない。  そして、夜があけたころには、怪ヘリコプターのすがたはどこにも見えず、また、怪《あや》しい船も見あたらなかった。こうして、獣人魔《じゆうじんま》梶原は、まんまと真珠《しんじゆ》の宝舟《たからぶね》と、ふたりの少年少女をさらって逃走《とうそう》したのだ。  それはさておき、こちらは三津木俊助《みつぎしゆんすけ》と探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴《みこしば》少年だ。  志賀恭三老人の邸宅《ていたく》をおそった怪物《かいぶつ》を、獣人魔梶原だと、はっきり知っているふたりは、三芳判事《みよしはんじ》の一家のために、このうえもなく胸《むね》をいためていた。  ああして、梶原が活躍《かつやく》をはじめた以上、いつかきっと、三芳判事にたいして復讐《ふくしゆう》をくわだてるにちがいない。三芳判事にたいする復讐……それはとりもなおさず、由紀子《ゆきこ》をいじめることだ。  志賀恭三老人の孫のふたりを誘拐《ゆうかい》していったように、いつか獣人魔梶原は、由紀子をうばいにくるのではあるまいか。  糟谷警部《かすやけいぶ》も、梶原が獣人となって再生したことは信じなかったが、ひょっとすると三芳判事の一家に危害《きがい》をくわえにくるのではないかということは考えられるので、みずから三芳一家のボデーガードの役をかって出た。  しかし、探偵小僧の御子柴少年は、それでもまだ心もとないので、 「ねえ、由紀子さん。いつかぼくと約束したこと、わすれやぁしないだろうねえ」  と、由紀子にあうたびに念をおす。 「ええ、進《すすむ》さん、けっしてわすれやぁしないわ。ほら、このとおり肌身《はだみ》はなさず持ってるのよ」  と、由紀子が出してみせたのは、帽子《ぼうし》箱くらいのスーツケースである。 「ああ、そう、ありがとう。けっしてそれをわすれちゃいけないよ。いつかきっと役に立つことがあるからね」 「え?」  と、由紀子はちょっと青くなって、 「それじゃ、近いうちにあたしの身に、なにかまちがいが起こるというの」 「いや、いや、そういうわけじゃないけれど、梶原がつかまらないうちは、用心に用心をしたほうがいいからね」 「ええ、ありがとう。あたし、かたときもこれをはなさないから」  と、由紀子はだいじそうに、帽子箱ほどのスーツケースを胸に抱《だ》いたが、それにしてもその箱のなかには、いったいなにがはいっているのだろう。なかでコトコト音がして、スーツケースのあちこちに、小さな穴があいているところをみると、ひょっとすれば生きものでもはいっているのではあるまいか。  由紀子は出るにもはいるにも、用心に用心をかさねていたが、しかし、いつまでも学校をやすむわけにはいかない。  そこで行きも帰りも、糟谷警部が自動車で送りむかえすることになっていた。  きょうもきょうとて勉強がすんで、先生におくられて学校の門のところまでくると、糟谷警部が待っていた。 「警部さん、それではおねがいしますよ」  先生があいさつをされると、 「はあ、しょうちしました」 「警部さん、自動車は……?」  由紀子がたずねると、 「ああ、むこうの横丁に待たせてある。ちょっとパンクをしたんでね」  横丁までくると、はたして自動車が待っている。それにのると糟谷警部は、由紀子がだいじそうに抱《だ》いている、ひざのうえのスーツケースに目をとめて、 「由紀子ちゃん、その箱のなかには、いったい何がはいっているんだね。いつもだいじそうに抱いてるけど」 「お人形がはいってるの。あたしのかわいいお人形」 「アッハッハ、そうかい。やはり女の子だねえ」  糟谷警部は笑っていたがふと、運転台の鏡にうつっている運転手の顔を見ると、 「あっ、き、きさまはだれだ!」  と、身をのりだしたが、そのとたん、くるりとうしろをふりかえった怪《かい》運転手が、 「これでもくらえ!」  と、ぶっぱなしたのは、いつか三津木俊助もやられたことのある麻酔《ますい》ピストル。 「あっ、お、おのれ!」  糟谷警部は両手ではらいのけようとしたが、やつぎばやに発射《はつしや》される甘《あま》ずっぱいにおいの霧《きり》におそわれて、 「あ、あ、あああ……」  と、とうとうその場に眠《ねむ》ってしまった。  そばでこのようすをながめている由紀子は、あまりの恐《おそ》ろしさに声も出ない。あの小さなスーツケースをかかえて、ただわなわなとふるえるばかり。  怪運転手はニヤリとそのほうをみて、 「アッハッハ、お嬢《じよう》さん、こわいかい? それじゃこわくないように、おまえさんも眠らせてあげようねえ」  と、麻酔《ますい》ピストルを由紀子の鼻さきにつきつけると、やつぎばやに発射する。あわれな由紀子はたちまち麻酔薬がきいてきて、そのまま、ふうっと気が遠くなってしまった。あの小さな箱を、しっかと胸《むね》に抱《だ》いたまま……。  由紀子がフッと目をさますと、うす暗がりのなかに、だれやらすわっている。  由紀子がギョッとしてからだを起こすと、 「ああ、目がさめたんだね」  と、そういう声は思いがけなく、やさしい少年の声だった。 「あら?」  と、由紀子《ゆきこ》がはじかれたようにあたりを見ると、そこは四じょう半ばかりの、穴《あな》ぐらのようにせまい、殺風景な部屋《へや》で、うす暗い床《ゆか》のうえには、ひとりの少年とひとりの少女がしっかと肩《かた》を抱きあっている。 「まあ……あなたがたはいったいどなた! ここはいったいどこなんですの」 「ここがどこだかぼくも知らない。だけどぼくの名は志賀三千男《しがみちお》、この子はぼくの妹で百合子《ゆりこ》というんだ」  ああ、このふたりこそ軽気球で連れさられた志賀恭三老人のふたりの孫だった。 「まあ、それじゃ、あなたがたが……」  由紀子もハッとおどろいたが、そこできゅうに思いだしたようにあたりを見まわすと、 「ああ、あたしの箱は……? あたしの小さいスーツケースは……? ああ、あった、あった。これさえあれば……」  と、由紀子は気がくるったように、小さい箱を抱きしめたが、その箱のなかにはなにがはいっているのだろうか。   「由紀子を連れてきたかあ?」  と、わめくように叫《さけ》んだのは、黒いずきんに黒いガウンの獣人魔《じゆうじんま》だ。そのガウンのそでぐちやすそから、毛むくじゃらの手足がはみだしている。左右には、あの船長と、小男のお小姓《こしよう》がひかえている。  そこは殺風景な西洋ふうの大ホールで、正面のいちだん高いところに三人がひかえており、そのしたには、これまた黒いずきんに、黒いガウンをきた男が三十人ばかり、ずらりといならんでいる。胸につけたどくろのマークからみても、これこそ瀬戸内海《せとないかい》の一孤島《いちことう》、骸骨島《がいこつじま》にあつまっていた、悪者どもにちがいない。 「はっ、由紀子は塔《とう》のてっぺんの部屋《へや》へ押《お》しこめておきました」  と、そう答えたのは骸骨団《がいこつだん》のなかでも、かしらだったものらしく、せなかに1という数字がぬいつけてある。 「おお、ナンバー1だな。それで、塔のてっぺんの部屋といえば、志賀恭三《しがきようぞう》のふたりの孫、三千男や百合子といっしょか」  獣人魔は、またわめくようにききかえす。 「はっ、おなじ部屋へ、ほうりこんでおきましたが、いけなかったでしょうか。あいにく、ほかに鍵《かぎ》のかかる部屋がなかったものですから……」  ナンバー1は恐《おそ》るおそる、直立不動のしせいで答える。獣人魔はかたわらにひかえている、小男のお小姓をふりかえり、 「お小姓、鍵のかかる部屋は、ひとつしかないのか」 「はっ、ボス。なにしろこのとおり、あれはてた古塔《ことう》ですから、どの部屋もドアが、がたびししておりまして、ろくに鍵もかかりません」  と、ことばだけではしんみょうだが、お小姓のようすには、どこか相手をこばかにしたようなところがある。  ボスの獣人魔はうなずいて、 「それではしかたがない。ときに、真珠王《しんじゆおう》の志賀恭三から、なんとか返事をいってきたか」 「ところが、それがなんともいってまいりません」 「なに? いまだになんの返事もないというのか」  と、獣人魔にかわって、怒《いか》りに声をふるわせたのは大男の船長である。  まるで、われがねのような声である。  骸骨団《がいこつだん》の一味のものは、真珠王志賀恭三老人にたいして、三千男と百合子のいのちがおしければ、一億円よこせと要求しているのだ。一億円よこせば、ふたりのいのちをたすけてやるが、さもなければ、三千男も百合子も殺してしまうとおどしているのだが、いまもって志賀恭三老人からなんの返事もないのである。 「あのじじいめ、ひとをばかにしおる。ボス、この腹《はら》いせにふたりをここへ連れてきて、うんといじめてやろうじゃありませんか」  大男の船長がわめきたてると、 「おもしろい、おもしろい。ボス、ついでに由紀子もここへ連れてきて、三人をなぶりものにしてやりましょう」  と、手をうって叫《さけ》んだのは、あの残忍《ざんにん》なお小姓《こしよう》である。  それにたいして覆面《ふくめん》の獣人魔《じゆうじんま》はなぜかためらうようすだったが、そんなことにはおかまいなしに、お小姓が、 「さあ、だれでもよいから、三千男と百合子、それから由紀子の三人を、てっぺんの部屋からここへ連れてこい!」  と、大声でわめきたてたときである。とつぜん、ガラガラとものすごい音をたて、天井《てんじよう》から落ちてきたものがある。ふいのこととて一同は、あっとばかりに総立《そうだ》ちになったが、天井から落ちたひょうしに足でもくじいたのか、床《ゆか》のうえでもがいているのは、なんと鬼頭《きとう》博士《はかせ》の助手だった、あの里見《さとみ》青年ではないか。 「あっ、お、おまえは里見……」  と、覆面の獣人魔がびっくりぎょうてん、一段高い壇《だん》のうえから、身をのりだそうとするのを、あわててそばから抱《だ》きとめたのは、大男の船長と小男のお小姓だ。 「ボ、ボ、ボス、あなたはだまっていらっしゃい」  と、なぜかひどくあわてたようすで、ボスの獣人魔をなだめると、小男のお小姓は里見助手のほうをふりかえった。 「アッハッハ、里見さん。あんた生きていたのかね。骸骨島《がいこつじま》の穴《あな》ぐらで、とっくの昔に死んでいると思ったのに、悪運の強いお方だ。ウッフッフ」  と、ヘビのように冷たい男の笑い声である。それに反して大男の船長はいきりたち、 「やい、お小姓、こりゃあ笑いごとじゃないぞ。こいつが生きていたのはいいとしても、どうしてここへしのびこんだか、いや、どうしてこのかくれ家《が》をつきとめたか。……おい、ナンバー3とナンバー4、そいつをせめてきいてみろ」  船長の命令一下、ナンバー3とナンバー4が、左右から里見青年におどりかかると、腰《こし》からとりだしたのは革のむち。ふたりはそれをふりあげると、 「やい、里見、白状《はくじよう》しろ。きさまはどうしてこのかくれ家をつきとめたんだ。いえ、いえ、いえ、正直にいわぬとこのとおりだぞ」  と、足をくじいて身うごきもできぬ里見助手の頭上から、ぴしり、ぴしりと、恐《おそ》ろしいむちがふってくる。里見助手は苦しそうにうめき声をあげながら、 「いう、いう、いうからそのむちはやめてくれ……」 「よし、ふたりともむちはやめろ!」  と、大男の船長は命令すると、 「さあ、いえ、里見。きさまはどうしてここをつきとめたのだ」 「ぼくは……ぼくは、由紀子さんをひそかに見まもっていたんです。いつか梶原一彦《かじわらかずひこ》が、由紀子さんをさらいにくるだろうと思って、いっときも目をはなさなかったんです」 「ああ、そうか。それで由紀子をさらってきた、自動車のあとをつけてきたんだな」 「そうです、そうです。そして天井《てんじよう》にしのんでいたところが、志賀恭三老人の孫たちも、ここにいると知って、びっくりしたひょうしに足ふみはずして……」  と、里見青年はくやしそうに唇《くちびる》をかむ。 「アッハッハ、それこそ自業自得《じごうじとく》というものだ。ときに、里見、きさまはこのかくれ家をだれかにつげたか」 「いいや、残念《ざんねん》ながらそのひまはなかった。ぼくはいま、ここへしのびこんだばかりだから」  里見助手は、またくやしそうに歯ぎしりしたが、それを聞くと船長とお小姓は安心したように、ニタリと顔を見あわせて、 「ボス、どうしましょう。こいつ、ひと思いに殺してしまいましょうか」 「いや、まあ、待て」  と、覆面《ふくめん》のボスはあわててふたりをおさえると、 「殺すのはいつでも殺せる。ひとまず塔《とう》のてっぺんへとじこめておけ」  と、そういうボスの声をきくと、里見助手はなぜかハッとしたように、あいてのすがたを見なおしたが、そのとき、前後左右からおどりかかったのは、五、六名の骸骨団《がいこつだん》。 「こいつめ、悪運の強いやつだ。さあ、われわれといっしょにこい!」  と、手とり足とり里見青年をかつぎあげると、ながいながい階段《かいだん》をのぼって、やってきたのは三人の少年少女がとらわれている部屋《へや》の前。ガチャリとドアをあけると、 「さあ、ここでおとなしく、死刑《しけい》の宣告《せんこく》があるまで待っていろ!」  と、部屋のなかへほうりこむと、外からピンと鍵《かぎ》をかけていったが、それから三十分ほどのちのこと。その部屋の小さな窓《まど》から、ふしぎなものがとびだしたのを、骸骨団の一味のものは、だれひとりとして気がつかなかった。  ああ、それこそは由紀子がいのちよりもたいせつにかかえていた、あの小さな箱にはいっていたもの。……すなわち伝書鳩《でんしよばと》なのだ。  伝書鳩はしばし古塔《ことう》のうえを、ゆるく輪をえがいて飛んでいたが、やがて矢のように東の空へ。    漂《ただよ》ういかだ  三浦《みうら》半島のとっぱな、城《じよう》ケ島《しま》のほど近くに、海に面してふしぎな塔がたっている。  この塔はその昔、灯台としてたてられたものだが、設計《せつけい》にあやまりがあったとやらで、灯台として役にたたず、おまけにその近所にあたらしく、最新式の灯台ができたので、いまではまったく無用のものとなり、あれるにまかされているのである。  ところが近ごろその塔に、ふしぎな火が燃《も》えるだの、幽霊《ゆうれい》がでるのだのとうわさがたって、付近のものも恐《おそ》れをなして、だれひとり、近づく者はなくなった。  さて、この塔のてっぺんから、伝書鳩がとびさってから二日めの夕方のこと、塔のてっぺんの物見台《ものみだい》から、望遠鏡でひそかにあたりの海上を見まわしていた、骸骨団のひとりが、なにを見つけたのか、ちょうどそこへあがってきた、大男の船長に、 「あっ、船長、あれはなんでしょう。いかだのようなもののうえに、大きなトランクみたいなものがのっかって浮《う》かんでいるんですが……」 「なに、いかだのようなもののうえにトランクが……。どれどれ」  大男の船長がかわって望遠鏡をのぞいたが、見ればなるほど、岸から三百メートルほどの沖合《おきあい》に、丸太をくんでこしらえたいかだが、波のまにまに浮かんでいる。しかも、そのいかだのうえにのっかっているのは、がんじょうな鉄の帯でしめつけた、大きなトランクである。  大男の船長は、欲《よく》のふかそうな目をギロリと光らせ、 「一週間ほどまえに、南方海上を大きな台風が通りすぎたというじゃないか」 「ああそうそう、ラジオがそんなことをいってましたね」 「ひょっとするとあのいかだは、そのとき難破《なんぱ》した船の、乗組員が作ったものじゃないか」 「あっ、船長。そうです、そうです。きっとそれにちがいありません。そして、あのいかだにのっていた乗組員は、ここまでくるとちゅう、みんな波にさらわれて死んでしまって、あのトランクだけのこったんですね」 「うん、もし、そうだとすると、あのトランクには、きっと金目のものがはいっているにちがいないぜ」 「船長。それじゃ人をやって、あのトランクをこの塔《とう》のなかへはこびこませましょうか」 「ああ、そうしてくれ。そのあいだ、おれがここで見張《みは》っている。いいか、気をつけろ。人に気づかれるな」 「しょうちしました」  骸骨団《がいこつだん》の手下は大いそぎで物見台《ものみだい》からおりていく。大男の船長が望遠鏡でのぞいてみると、やがて岩かげからこぎだしたボートが、いかだのほうへ近づいていった。 「船長、このトランクはふしぎですぜ。どうしてもあけかたがわからないんです」  古塔《ことう》の大ホールでは、いましもふしぎなトランクをとりかこみ、骸骨団の一味の者が、あれかこれかと首をひねっていた。覆面《ふくめん》の獣人魔《じゆうじんま》は見えなかったけれど、ヘビのように残忍《ざんにん》なお小姓《こしよう》もまじっている。 「あけかたがわからないって、そんなばかなことがあるもんか。どれ、おれにまかせろ。いっぺんにあけてみせるわ」 「ウッフッフ、船長。あんたの知恵《ちえ》で開くものなら開いてごらん。これは魔法《まほう》のトランクだよ。とてもあきゃあしない」  小男のお小姓は、せせら笑うような声である。 「何をいいやがる。こんなもの、なんのぞうさもあるもんか」  と、口では大きなことをいってみたものの、なるほどこれは魔法のトランクである。鍵穴《かぎあな》はどこにもなく、だいいちどこがふただか、それすらわからない。 「ええい、めんどうくさい。だれか、おのを持ってこい。ぶっこわしてしまおう!」  と、船長がかんしゃくをおこしていきりたつのを、そばからお小姓がせせら笑って、 「船長、そんな短気をおこしちゃいけない。これほど厳重《げんじゆう》なトランクだもの。なにかよほどだいじなものがはいっているにちがいない。あしたゆっくり調べてみて、それでもあけかたがわからなかったら、気ながに解体《かいたい》していこう。おい、このトランクを倉庫へほうりこんでおけ」  小男のお小姓の命令で、骸骨団《がいこつだん》の四、五人が、えっちらおっちら、重いトランクをはこびこんだのは、大ホールのうしろにある物置だ。そこへトランクを投げだすと、一同は、大ホールへとってかえす。それから約六時間のちのこと、夜も十二時をすぎて、骸骨団の一味の者が、寝《ね》しずまったころである。  物置に投げだされたトランクのなかから、ふいにギーッという音がしたかとおもうと、まるで箱根細工《はこねざいく》を開くように、トランクのあちこちが動いて、やがてなかからはいだしたのは、なんと探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴《みこしば》少年ではないか。見ると御子柴|進《すすむ》はせなかに酸素《さんそ》ボンベをせおっている。  ああ、わかった、わかった。あの伝書鳩《でんしよばと》の通信で、古塔《ことう》のありかを知った探偵小僧は、みずから魔法《まほう》のトランクに身をひそませ、わざとこの古塔へはこびこまれたのだ。それはさておき探偵小僧は、酸素ボンベをせなかからおろすと、あたりのようすをうかがいながら、そっと物置からはいだした。  さいわい、骸骨団の一味の者は、みんなよく眠《ねむ》っているらしく、あたりはしんとして物音もない。  探偵小僧の御子柴進は、ポケットから万年筆がたの懐中《かいちゆう》電灯をとりだすと、それで足もとを照らしながら、古塔の階段《かいだん》をのぼっていく。その階段は古塔の壁《かべ》のうちがわにそって、渦巻《うずま》きのようにぐるぐるうえへのぼっていくのだ。  探偵小僧にとっては、この古塔ははじめてだけれど、伝書鳩の足につけてよこした里見《さとみ》助手の通信で、塔のようすはかなりくわしくわかっているのだ。  進はまもなく、里見助手と三人の少年少女が押《お》しこめられている、あの部屋《へや》の前までやってきた。進はしばらく部屋のなかのようすをうかがったのち、やがてコツコツ、ドアをたたく。 「だれ……?」  なかから聞こえてきたのは、まぎれもなく里見助手の声である。 「ああ、里見さん、ぼくです。探偵小僧です。いま、ドアを開きますから、静かにしていてください。由紀子《ゆきこ》さんはじめ、みんなぶじですね」 「ああ、ありがとう。みんなぶじだよ。そして、三津木《みつぎ》さんやなんかは……?」 「おもてで待っているはずです。これ以上、だれも口をきかないように……」  と、ドアの外からささやいた進は、ポケットから鍵束《かぎたば》をとりだすと、ひとつひとつ合わせてみる。部屋《へや》のなかでは里見助手をはじめとして、三人の少年少女が抱《だ》きあって、かたずをのんで待っている。  やがて、うれしや、鍵のひとつがぴったり合って、ガチャリと錠《じよう》のはずれる音。しめたとばかりに進は、ソッとドアを開いたが、そのとたん、百雷《ひやくらい》のとどろくごとく、古塔《ことう》のなかにひびきわたったのは、けたたましい非常ベルの音。 「しまった!」  と、進は叫《さけ》んだが、そのときにはもうあちこちから、 「それ、曲者《くせもの》がしのびこんだぞ」 「だれか塔のてっぺんの部屋を開いたやつがあるぞ!」  と、くちぐちにわめきながら、てんでに懐中《かいちゆう》電灯をふりかざし、あの渦巻《うずま》き階段《かいだん》を、おしあい、へしあい、のぼってくるのは骸骨団《がいこつだん》の一味のもの。 「あっ、里見さん、由紀子さん!」 「御子柴さあん!」  逃《に》げるといっても塔のてっぺん。進退《しんたい》ここにきわまった五人は、ひしとばかりに抱《だ》きあった。  ああ、賊《ぞく》もまもなく、ここへやってくるにちがいない。    ほのおの襲撃《しゆうげき》 「あっ、里見《さとみ》さん、由紀子《ゆきこ》さん。それから三千男《みちお》くんも百合子《ゆりこ》さんも、はやくそこから出ていらっしゃい。とにかく、屋上の物見台《ものみだい》へでてみましょう」  進《すすむ》の叫《さけ》び声に、四人の者は、ばらばらと、押《お》しこめられていた部屋からとびだしてくる。  見れば渦巻き階段を、黒ずくめの服にずきんをかぶった、骸骨団の一味の者が、てんでに懐中電灯をふりかざし、おしあい、へしあい、ひしめきながらのぼってくるのだ。 「み、御子柴《みこしば》くん、だ、だいじょうぶ……?」  さすがに、ごうたんな里見助手の声もふるえている。  里見助手はこわがっているのではないのだ。ここでつかまったがさいご、由紀子はいうにおよばず、三千男や百合子のいのちがあぶないと、それを心配しているのである。 「だいじょうぶです。ほら、あの爆音《ばくおん》……」  なるほど、耳をすますと塔の上空のあたりで、ヘリコプターの爆音が聞こえる。ああ、警察《けいさつ》ではヘリコプターで、三人の少年少女を救おうとしているのだ。 「さあ、そこに階段があるでしょう。里見さん、あなた三人を案内してください。ぼくはいちばんあとからのぼります。ああ、そうそう里見さん、この懐中電灯をふって、ヘリコプターに合図をしてください」 「よし、わかった。みんなきたまえ」  いままで四人がとじこめられていた部屋のすぐ横に、せまい階段がついている。進からいまうけとった、大きな懐中電灯をふりかざしながら、里見助手が先頭にたって、その階段をのぼっていく。あとにつづくのは由紀子に百合子、それから三千男の三人である。  さいごにのこった探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴少年がしたをみると、骸骨団の一味の者は、もう数メートルのしたにせまっている。先頭にたったのは大男の船長、それにつづくは小男のお小姓《こしよう》、そしてそのうしろには三十人ばかりの骸骨団の者がつづいている。  ただ、さいわいなことには、階段が壁《かべ》にそってぐるぐると、渦巻きのようについていることだ。だから、すぐそこにたがいのすがたをみながらも、なかなかそばへは近よれないのだ。  いまや、進の足もと、三メートルほどのところまでせまった大男の船長は、そこにたっているのが、だれだかはじめて気がつくと、 「や、や、おまえは探偵小僧だな!」  と、叫《さけ》びながら腰《こし》のピストルに手をやろうとするまえに、 「こうしてやる!」  と、叫んだ進は、右手をふって、ウメの実ほどのまるい玉を、はっしとばかり、大男の船長の足もとにたたきつけた。ドカーンとものすごい音がしたかとおもうと、パッとほのおが燃《も》えあがった。 「あ、ち、ち、ち!」  意外なことにあわをくってとびのく船長。しめたとばかり進がやつぎばやに、油煙玉《ゆえんだま》を五、六発、渦巻《うずま》き階段《かいだん》のあちこちに、たたきつけたからたまらない。  めらめらと青白いほのおが、渦巻き階段のほうぼうに燃えあがったから、浮《う》き足だった骸骨団《がいこつだん》は、うえをしたへの大|混乱《こんらん》。 「おのれ! 探偵小僧め!」  大男の船長は歯ぎしりしながら、ズドンズドンとピストルをぶっぱなしたが、なにしろ、ほのおと煙《けむり》で目が見えないのだから、そんな弾丸があたるはずがない。  さあ、これでよしと探偵小僧の御子柴少年、身をひるがえしていっさんに、物見台《ものみだい》へとかけのぼった。  いっぽう、こちらは塔《とう》のてっぺんの物見台である。  里見助手がひっしとなってふりまわす懐中《かいちゆう》電灯の光をみとめて、上空のヘリコプターから、パラリと投げおろされたのは、三本の綱《つな》のさきに結びつけられた三つのカゴである。ヘリコプターは三つのカゴを投げおろすと、ゆうゆうと塔の上空をまわっている。 「しめた! それ、三千男くん百合子さんも、それから由紀子さんも早くそのカゴに乗りたまえ」 「でも、里見さん、あなたやさっきの御子柴くんは……?」 「ぼくたちはあとでなんとかする。さあ、早く乗りたまえ。はやく、はやく……」  それでも三人がためらっているところへ、したからあがってきたのは御子柴少年だ。 「あっ、なにをぐずぐずしてるんです。三人とも早くそのカゴに乗りたまえ」 「でも、進さん、あなたはどうするの」 「ぼくたちのことはかまっていなくてもいいんだ。どうやら警官隊《けいかんたい》が乱入してきたもようだ。けががあっちゃいけないから、さあ、三千男くん、きみからさきに乗りたまえ」  せきたてられて三千男は、 「すみません、それでは、ぼく乗ります。由紀子ちゃんも百合子も乗りなさい。じゃまになっちゃいけないから」  と、三人がヘリコプターから、目の前におろされたカゴに手をかけたときである。 「おのれ!」  と、いう声が聞こえたかと思うと、階段《かいだん》に船長の顔があらわれた。船長は油煙玉《ゆえんだま》にやられたとみえ、顔に大きなやけどをしている。 「なにを!」  と、叫《さけ》んで進が、船長の鼻さきへ油煙玉を投げつけた。  と同時に、船長のもっているピストルが、火をふいた。  ぱっと燃《も》えあがる油煙玉のほのおに顔をやかれて、 「わっ!」  と、叫んで船長が、階段からあおむけざまにころげおちるのと、 「あっ!」  と、里見助手が身をかがめて、足を押《お》さえたのといっしょだった。 「あっ、里見さん、やられましたか」 「だいじょうぶ、だいじょうぶ、足をかすっただけだ。それより、三人は乗りこんだかい?」 「ええ、いま乗るところ……」  三千男と百合子はすでに乗りこんで、いま由紀子がさいごに乗るところだった。探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴《みこしば》少年が手つだって、その由紀子をカゴに乗せると、 「里見《さとみ》さん、懐中《かいちゆう》電灯をかしてください」  と、進《すすむ》は懐中電灯をうけとると、それを空に向かってふってみせる。用意ができたという合図だ。  ヘリコプターの操縦士《そうじゆうし》も、その合図をみてとったのか、高度をあげていく。 「里見さん、御子柴さん、それじゃ、ぼくたちさきにいきます」 「進さん、気をつけてね」  空中にゆれる三つのカゴのなかから、三千男と百合子、それに由紀子の三人が、なごりをおしむように手をふっている。 「ああ、だいじょうぶだ、ぼくたちもすぐ帰るからね」 「あっ、里見さん、御子柴さん、悪者がそこに……」  と、三千男にいわれて、里見助手と進が、ハッとふりかえったときはおそかった。  階段のあがりぐちに小男のお小姓《こしよう》が、にやにや笑いながらたっている。しかも、その手ににぎられたピストルが、ぴたりと探偵小僧の胸《むね》をねらっているのだ。 「手をあげろ! あげぬとうつぞ!」  と、叫ぶお小姓の声に、里見助手も進も、手をあげぬわけにいかなかった。 「やい、探偵小僧!」  と、ヘビのように残忍《ざんにん》なお小姓は、これまた油煙玉にふかれてやけどをした顔に、ものすごい微笑《びしよう》を浮《う》かべて、 「きさまのために何もかもめちゃめちゃにされてしまったわ。ほら、あの物音を聞け」  お小姓に注意されるまでもなく、里見助手も進も気がついていた。塔《とう》をとりまいていた警官隊《けいかんたい》が、いっせいに乱入してきたにちがいない。  ズドン、ズドンとピストルをうちあう音。叫《さけ》び声、ののしる声、ドスン、ドスンとものをぶっこわすひびき。いまや骸骨団《がいこつだん》のそうくつは大|混乱《こんらん》となっているのだ。 「これで骸骨団もおしまいだ。しかし、われわれはじぶんたちだけはほろびやしない。おまえたちも道づれにしていくのだ。さあ、探偵小僧《たんていこぞう》も里見もかくごしろ」  ああ、こうなったらさいごだ。里見青年も進も、かんねんした。 「フッフッフ! いいかくごだ。探偵小僧、おまえからさきにいのちをもらうぞ!」  と、ヘビのようなお小姓が、いままさにピストルのひきがねをひこうとしたときだ。おもいがけなく探偵小僧と里見青年のうしろから、ズドンとピストルの音がしたかと思うと、 「あ、ち、ち、ち!」  と、叫んでお小姓がピストルをとりおとした。  このおもいがけないできごとに、進と里見青年が、まだ手をあげたままぼうぜんとしているところへ、 「お小姓、手をあげろ。手をあげぬとうつぞ」  ピストルをひろいにかかったお小姓は、その声にギョッとしたように手をあげる。おもいがけない味方の出現に、地獄《じごく》で仏《ほとけ》にあったような気持ちの進と里見青年は、おもわずうしろをふりかえったが、そのとたん、またサッとまっ青《さお》になった。  なんと、そこにたっているのは、黒ずくめの服に黒いずきん、胸《むね》にどくろのマークのついた、骸骨団の一味の者。しかもそで口やすそからのぞいている、あの毛むくじゃらの手足をみれば、それこそ獣人魔《じゆうじんま》となった梶原一彦《かじわらかずひこ》ではないか。  ふたりがおどろいてあとずさりをするのを、獣人魔はなだめるように手をふって、 「さあ、ふたりともこっちへきたまえ。悪者たちはやけくそになっているんだ。はやくここをぬけださぬといのちがあぶない。さあ、ぼくといっしょにきたまえ」  そういう声には里見青年も進も、たしかに聞きおぼえがあった。 「そういうあなたは……?」 「だれでもいい。はやく……、はやく……」  その物見台《ものみだい》にはもうひとつ、秘密《ひみつ》の階段《かいだん》があって、その階段はいなずまがたに、まっすぐに地上におりているのだ。  ふしぎな獣人魔のたいどを、里見青年も進も、いぶかったが、お小姓《こしよう》のうしろから、まただれかがあがってくるようすに、 「御子柴くん、いこう!」  と、里見青年が進をうながして、階段へ足をかけたときである。 「おのれ、この裏切《うらぎ》り者!」  と、お小姓がピストルをひろうよりはやく、一発うったのと、獣人魔《じゆうじんま》の手にしたピストルがこれまたズドンと火をふいたのと、ほとんど同じしゅんかんだった。 「あっ!」 「わっ」  と、叫《さけ》んで獣人魔とお小姓は、ふたりいっしょに骨《ほね》をぬかれたように、くたくたとその場にたおれていった。 「あっ」  と、叫んで里見助手と進が、獣人魔のそばへかけよると、獣人魔は手をふって、 「おれのことはいい。それよりもきみたち、はやくここを逃《に》げたまえ」 「しかし、しかし、そういうあなたは?」 「おれだ、鬼頭《きとう》だ」  と、ゴリラの頭をすっぽりぬぐと、なんとそれは鬼頭|博士《はかせ》ではないか。ああ、鬼頭博士なら、骸骨島《がいこつじま》で殺されて、穴《あな》ぐらのなかへ投げこまれたはずなのに……。  探偵小僧《たんていこぞう》と里見青年がぼうぜんとして顔を見合わせていると、鬼頭博士は胸《むね》を押《お》さえて、 「里見くん、面目《めんぼく》ないがおれの実験は失敗したのだ。梶原一彦のからだから、脳《のう》をとりだすとき梶原も殺してしまったし、何も役に立たなかったのだ。おれは人殺しの罪人《ざいにん》になった……」  鬼頭博士は、苦しそうに息をつきながら、 「そのとき、おれは警察《けいさつ》へ名のって出ようとしたのだが、船長とお小姓におどかされて、みずから獣人魔になりすますようになったのだ。ふたりはゴリラを殺して皮をはぎ、それをおれにかぶせた。そして、あのとき、ゴリラに首の骨をおられて死んだ十六号を、おれの身がわりにしたのだ。しかし、そのことがわかると、骸骨団《がいこつだん》の悪者が、ボスを信用しないことになるから、実験は成功して、梶原の脳がゴリラのからだのなかで、生きかえったものだと思いこませていたのだ」  あまり意外な博士の話に、進と里見青年は、あきれはてて、ただ顔を見合わせるばかり。 「おれはただ、骸骨団《がいこつだん》の一味の者に、すがたをみせる必要のあるときだけ、ゴリラの皮をかぶって獣人魔《じゆうじんま》の役目をつとめた。そして、じっさいに悪事をはたらくときは、大男の船長が、ゴリラの皮をかぶって、獣人魔になっていたのだ……」  博士がそこまでかたったとき、たおれているお小姓のうしろの階段から、あがってきたのは大男の船長だ。それをみるより鬼頭博士が、 「おのれ!」  と、叫ぶと、ズドンと一発。  大男の船長がお小姓のうえへおりかさなってばったりたおれるのを見とどけて、鬼頭博士もがっくりそこへつっぷした。 「先生、先生!」  と、里見助手と進が、あわててそのからだを抱《だ》き起こしたときには、鬼頭博士の息はすでにたえていた……。  こうして、さしも世間をさわがせた骸骨団の一味はほろび、あの気味悪い獣人魔も、もうこの世にいなくなった。  しかし、里見青年と進は、鬼頭博士の名誉《めいよ》のために、かたくこのことを秘密《ひみつ》にして、だれにも話さないことにした。  幸か不幸か、鬼頭博士と船長と、小男のお小姓《こしよう》の死体をそこにのこして、里見青年と進が秘密の階段《かいだん》からやっと塔《とう》の外へぬけだしたとき、塔のなかにたくわえてあった火薬に火がうつったのか、とつぜん、万雷《ばんらい》のとどろきにも似《に》た音をたてて、あのいまわしい塔はこっぱみじんになり、空中高く吹《ふ》きあげられてしまったのである。 [#5字下げ]本書は、昭和五十六年九月に刊行された角川文庫版の再録による新装版です。 本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『真珠塔・獣人魔島』平成7年12月1日初版発行